猛暑で二ヶ月滞納していた“熊野古道歩き”を再開しました。
三日目となる今回は栃原から大台町三瀬谷までの14kmを歩きます。

宮川の中流域にあたるこのエリアは谷幅も比較的広くて、古くから農耕を営む村々が点在する地域です。

旅のスタート地点の栃原駅は2ヶ月ぶり 今回も終点の三瀬田駅にクルマを置いて電車で移動して来ました。

栃原駅は熊野古道から1kmほど北に外れているので、集落の旧道を移動します

合流する辻です 今回の熊野街道歩きは実質ここがスタート地点ですね

熊野古道に合流してすぐの踏切脇にある岡島屋旅館は江戸時代から続く宿で、熊野参詣の巡礼者で栄えました。(現在も営業中)
伊勢神宮を後にした旅人が泊まる最初の宿だったそうです。 うぎょぎょ!…昔の人は一日30km以上も歩いたんですね(*_*;
現在の熊野街道(R42)をクルマで走っても、この地域に曲がりくねった山坂道はほとんど無く、平坦な道というエリアですが、それは近代に数々の橋やトンネルで実現した姿であって、実際には宮川に注ぐ支流が穿った深い谷が幾重にもあり、“熊野の古道”はそれらの谷に下りては登りの連続で、想像以上の難所だった様です。





今回の旅では、地域で街道の保全を行なっている方と偶然に出会う事ができ、貴重なお話を伺う事ができました。
熊野古道の維持管理は、予算は別にして沿道のそれぞれの自治会に保全活動を行う会があって、有志のボランティアが維持しているんだそうです。







お伊勢さんにお参りする人、七人のうち三人は熊野詣に向かったと言いますから、意外に賑わった熊野古道の伊勢路です。
しかしこの街道沿いには参勤交代をする大名も無く、明確な宿場町が整備されなかったので、参詣者たちの旅は難渋を極めました。

ちょうど眼鏡橋に差し掛かる頃、にわか雨に襲われました(^-^; 橋の袂の雨が当たらない杉木立にベンチが有ったので、ここでしばし小休止

午前のオヤツはクルマを置いた三瀬谷の“道の駅:奥伊勢おおだい”で買った草餅。 これは昔は『すず子さんの草餅』という名で売っていて、お気に入りで通るたびに買っていたのですが、近年に名前を変えてリニューアルしたら味が落ちてしまいました。 しかし、少し昔の味に戻って来たかも(^^)

ふと気付くと、ベンチの傍に“眼鏡橋”へ降りて行く道がありました どうもこの道が熊野古道の様です

谷川まで下りて行くと、なるほど眼鏡橋がよく見えます 明治40年建造のレンガ造りの橋です

眼鏡橋から少し下ると、すぐに国道に出ます。 ここに手造り風の看板がありました
“神瀬の未来を語る会”…、前述の熊野古道を保全する自治会の集まりですね。

次の目的地の“殿様井戸”に向かっている時、沿道の民家の方が声を掛けて下さいました 「殿様井戸へ行かれますか? 台風でだいぶ荒れていると思いますので、少し待ってください」 その方はそう言うと谷に下りて行き、しばらくすると「もう大丈夫ですよ」と誘ってくれました。

この“殿様井戸”はどんな旱魃にも決して枯れる事のない泉だそうで、熊野詣をする(伊勢の)藩主が必ずここで休憩したからその名があるそうです。

泉の脇にはこんな看板もあり…

運悪く旅の途中で病を得て命を落とした巡礼者は、地元の人の手で埋葬供養されたそうです

旧道に出て来ました。 結局地元の方がそのまま古道をここまで案内してくれました(^-^; 昔と変わらぬ沿道の人の親切ですね
それを救ったのが沿道の農家であり、地域の家々では旅人に一宿一飯を提供し、病人の世話をする事も“当たり前”の事として受け継がれて来たのだそうです。
しかしながら、山間の零細な農家では大したもてなしも出来ず、布団などは無く、納屋に敷いた筵の上で寝てもらうのが精いっぱいという実態でした。
宿場に旅籠と歓楽の施設が備わって、半分観光と化していた“お伊勢参り”と違い、熊野古道の“巡礼の旅”の過酷さが判ります。





めはり寿司の名前の由来は、元来は一個で一人分の昼食の巨大サイズだったため、かぶりつく時に自然と眼を見開く事から付いた名前だそうです。
物資や生活がが豊かではなく、道路環境も不便な時代に社寺巡礼の旅ができた背景には、旅人の篤い信仰心と強い意志が不可欠で、かつ沿道の人々の利害を超えた全面的なバックアップがあって初めて成り立った、日本人ならではの文化遺産なのかも知れませんね。








後半の川添~三瀬谷につづく