未曽有の酷暑が続く日本本土を離れて、沖縄本島へ4日間の避暑に行っていました。
いやこれ冗談ではなく、連日36~38℃にもなる東海地方に比べて、那覇の最高気温は晴天にもかかわらず31℃止まりで、快適なバカンスになりました(^^)
 
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 沖縄には“日本百名城”として3城、“続・日本百名城”として2城の計5城が認定されており、沖縄本島の面積が淡路島ほどの広さである事を考えると、すごい密度で名城がある事が判ります。
 しかもこの5城がすべて“世界遺産”(琉球王国のグスク及び関連遺産群)ですから、“城郭の宝庫”と言っても過言ではないでしょう。
 
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安室ちゃんジェットで2時間で着いた沖縄・那覇
 
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那覇一の繁華街“国際通り”に宿を取って4日間の拠点とします
 
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まずは夜の街へ出て沖縄の文化と食を堪能し、一気に沖縄モード突入です
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チャンプルやソーキなど特有の食べ物も良いのですが、刺身が美味しいのにビックリ!
 
 
 今回、この5城を実質3日間で訪ね歩いて来た訳ですが、本土の人間にとって“沖縄の城”はそう馴染み深いものではなく、無知ゆえに規模が小さいとか防御力が弱い』とか『単なる宮殿』といった“格下”的な見方をしてしまう事があるかと思います。
 そこで1回目の今回は、“沖縄の歴史”についてちゃんと勉強し直して、沖縄の城の実像と背景を考えてみたいと思います。
 
 
 
 
日本人が通って来た道
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 先日NHKスペシャル「人類誕生・ホモサピエンスついに日本へ!」を放送していましたが、東アフリカを旅立ったホモサピエンスが日本へ到達したルートは、中国・台湾(昔は陸続きだった)から丸木舟で島伝いにやって来たと考えられている様です。
 造船と航海技術を要する事ですから、古代人といえども相当に知恵が発達した後の事ですね。
 
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“ガンガラーの谷”は港川人が発掘された現場、ガイド付きのツアーがあります
 
 まず先島諸島へ、次に沖縄諸島へ、そして薩南諸島から鹿児島へ それぞれに千年単位の定住期間を経ながら、時間をかけて北上して行った様です。
 
 
 
古く広範囲だった交易関係
 こうして培われた造船と航海の技術は、定住後も活かされて、漁労が盛んになります。
また、この海洋文化は台湾や中国、そして日本でも発達し、新たな産品を求めた商船が来航する様になると、沖縄の珍しい貝類が珍重され、特に螺鈿の材料となるヤコウ貝は大量に交易されて、中国や日本へ運ばれています。
 
 そしてこの商船ルートの発達は、中国と日本を結び付けることになり、遣唐使、遣隋使が渡海したのもこのルートです。
 
沖縄の歴史年表
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注目すべきは、高石垣を積んだ城が造られ機能した時代。 なんと鎌倉・室町期ですよ!
 
 
 
琉球と沖縄
 どっちが正しいのか?
琉球とは中国の文書に出て来る地名で、南西諸島全域に台湾も加えた広い範囲を示す呼び方です。
 対して沖縄は、先島諸島(宮古・八重山)の住民に対し沖縄本島を指す呼び名「阿古奈波」が語源と言われ、現在の県名が“沖縄”なのは、行政的な薩南諸島や台湾の扱いを考慮した日本都合による命名の様ですね。
 
 実際に大陸と日本双方からの交易と文化の流入があり、先島諸島はより近い中国の影響が強く、沖縄諸島以北は日本の影響が強い文化圏を形成していた様です。
 
 
 
沖縄にもあった戦国時代
 沖縄に稲作が定着したのは意外に新しく、12世紀になってからと言われています(平安時代中期)。
 12世紀末には稲作・畑作を中心とした農耕文明に完全に移行、集落は海岸部から農耕に適した台地に移ってグスク時代 に突入して行きます。 
 
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 一方、日本や中国と交流は盛んになる一方で、遠く東南アジアからの交易船も来航し、東アジアの貿易のHUB機能としての重要性が増して行きました。
 これらで富と力つけた地元の有力者は集落を束ねて豪族:按司(アジ)となって行き、石垣で囲まれた城(グスク)を築いた小国家群の乱立へ発展するのです。
 
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北山の中心拠点だった今帰仁城
 
 やがて小国家群は利権を巡って争う様になりますが、比較的短期に3つの国家に集約された様です。
 即ち帕尼芝が治める北部の北山、察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山で、この時代を三山時代と呼び、約100年続きました。
いずれも中国の明朝に朝貢して正統性を主張して激しく争った“戦国時代”ですね。
 
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中山が北山に対抗した拠点の座喜味城
 
 この中で南山の佐敷の按司だった尚巴が独力で中山王:察度を討って中山を手に入れ、次いで南山、北山も討滅して、三山統一成し遂げます。
これもって1429年、琉球王国第一尚氏王統が始まる訳です。
 
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中山の有力な按司で勝連半島に勢力を誇った阿麻和利の居城:勝連城
 
 尚巴志を祖とする第一尚氏は6代続きますが、尚徳王の死後に重臣の金丸が家臣団の多くの支持を得てクーデターに成功して即位し、尚円王を名乗ります。
これ以降の王統を第二尚氏王統呼びます。
 
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尚泰久が智将:護佐丸に築かせ、勝連城を監視させた中城城
 
 第二尚氏は中国明朝へ朝貢し身の保全を図る傍ら、八重山を傘下に組み入れ、奄美諸島にも侵攻して圧迫し、琉球国の黄金期を築きます。
しかし、奄美への侵攻は北に接する薩摩島津家との関係を犯してしまいます。
 
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琉球王国尚氏の居城として明治まで続いた首里城
 
 第二尚氏7代:尚寧王のとき(1609年)、薩摩藩は3千の兵で琉球に攻め入り、大した攻防戦も無いまま尚氏は降伏し、以後は明朝と並び薩摩藩にも冊封する、難しい形での国体を以って明治まで続いて行くのです。
 
 
その② 北山の拠点:今帰仁城 につづく