まだまだ続く関東ネタ、このテーマも粛々と消化して行きます(^^)
大名小路の続き…
 
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16陸奥 会津藩上屋敷
 藩主:松平容保  藩祖保科正之 石高28万石
 所在地:千代田区皇居外苑3-1
 現状の姿和田倉噴水公園、皇居外苑
 
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和田倉門を入ると、その枡形を取り囲む様に会津藩邸がありました。 
ここも一等地ですね、幕府の信頼の厚さが伺われます。
 
 会津松平家は保科正之をその祖としています。
正之は2代将軍:秀忠の子で、恐妻家の秀忠が信濃高遠藩の保科正光に養育を頼み、正光は自身の嫡子として育てていました。
 この事実を知った3代将軍:家光は、正之を実弟として可愛がり、優遇していましたが、出羽山形20万石の藩主の時、お家騒動で改易になった加藤家に代わり、会津藩23万石の藩主になりました。
 
 この時、家光から松平姓と葵紋の使用を勧められますが、正之は養父:正光への恩義から保科姓と九曜紋を使い続けたそうで、松平に改姓したのは3代目の正容からだそうです。
 
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現在は噴水広場になっていますが、此処は今上天皇のご成婚を記念して造られたものです
 
 会津藩といえば、幕末の佐幕派の旗頭として有名ですね。京都守護職となり討幕派諸藩の工作を一身に受けて立ち向かった感がありますが、なぜ会津なの?…という疑念があります。
 その理由のひとつとして、意外に知られてないのが石高なんですよね。
会津藩の表高は23万石で、これに天領5万石の管理も任されていたので、公称は28万石でした。
 
 しかしこの表高は織豊期の検地を基準にしたもので、土地改良や開墾、品種改良が進んだ幕末の実高とほ大きな差がありました。
特に東北ではそれが顕著で、会津藩の石高は50万石に達していた…と言われます。
 これは家門筆頭を任じる福井藩や譜代筆頭の彦根藩を上回り、御三家の水戸藩も敵わない“大藩”だったのです。
 
 

42武蔵 忍藩上屋敷
 藩主:松平(奥平)忠敬  藩祖:松平(奥平)忠堯 石高:10万石
 所在地:千代田区皇居外苑2-1
 現状の姿:皇居外苑
 
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皇居前広場の東側の馬場先濠沿いが忍藩邸の跡地です。 何もありませんが…。
 
 忍藩の松平家(奥平)は、長篠の合戦で長篠城に籠って武田軍を引き付けた奥平信昌の四男忠明の家ですね。
 忠明は家康の養子になったので優遇され、松平姓を許されると共に播磨姫路藩18万石が与えられ、井伊直孝とともに大政参与を勤めました。
 
 しかし、忠明の子孫は転封が多く、出羽山形藩→下野宇都宮藩→陸奥白河藩→再び出羽山形藩→備後福山藩→伊勢桑名藩をへて武蔵忍藩主となりましたが、家督をめぐるお家騒動もあって石高は10万石に減っています
 
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この辺りは木陰が有り、ベンチもたくさん有るので、休日には観光客より東京の家族連れがたくさん集まる場所です
 
 これだけ転封が続くと領地が各地に分散してしまうという弊害も有りますが、忍藩の場合は領地の半分近くが伊勢桑名にありました。
 その理由は陸奥白河藩主:松平定信(久松)が仕掛けた、桑名藩、忍藩との“三方領地替え”が背景にあります。
 白河藩主:松平定信(久松)が桑名藩へ、桑名藩主:松平忠尭(奥平)は忍藩へ、忍藩主:阿部正権は白河藩へというもので、これは大モメにモメますが、結局は実行されました。
 ただし、影響は最小限に…という事で、桑名領の多くがそのまま忍藩領となったわけですね。
 
 ちなみに現在、桑名市、行田市(忍)、白河市の三市は姉妹都市で交流しています。
 
 

 
14因幡 鳥取藩上屋敷
 藩主:池田慶徳  藩祖:池田光仲 石高:32万石
 所在地:千代田区丸の内3丁目3-1
 現状の姿:帝国劇場、国際ビル、新東京ビル など
 
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馬場先門から出て行くと、内堀通り沿いにオープン前の真新しいビルが建っています。 此処が鳥取藩邸の跡ですね。
 
 池田家の概略については前回、備前岡山藩のところでまとめて書いたので割愛します。
光政との領地交換命令で鳥取に入った光仲が家としての藩祖になります。
 
 光仲が入った当時の領内では、まだ戦国の気風が残る時期でもあり、土豪の掌握にとても苦労したそうです。
 また、領地が因幡国、伯耆国の二ヶ国であったため、鳥取城の他に伯耆の米子城の維持管理も必要で、財政面では決して裕福な藩ではなかった様ですね。
 
 
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かつて内堀通り沿いに有った藩邸正門は、東京国立博物館の敷地に保存展示されています
 
 池田家全体として見た時、嫡流の宗家は岡山藩の池田家であり、同等の石高でありながらも、気を使う事が多かったでしょうね。
 ただ、光仲は徳川家康の曽孫(督姫の孫)である為に親藩に準ずる優遇もされ、江戸城内では外様では加賀前田家と同等の扱いだったそうです。
 
 鳥取、岡山の両池田家がライバル関係で対抗意識を燃やしていたかと思いきや、江戸時代を通じて総じて仲が良かった様です。
鳥取藩の最後の藩主慶徳、岡山藩の9代藩主茂政はともに養子ですが、水戸藩主:徳川斉昭の二男と五男であり、15代将軍:慶喜を含めて兄弟です。
 
 

 
 
18土佐 高知藩上屋敷
 藩主:山内豊範  藩祖:山内一豊 石高:24万石
 所在地:千代田区丸の内2丁目4-1
 現状の姿:東京国際フォーラム など
 
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東京駅の隣の有楽町駅前にある東京フォーラムが土佐藩邸の跡です。 以前の東京都庁は此処にありました。
 
 土佐藩も土佐一国の国持ち大名の割に、24万石と少なめの石高ですが、幕末には表高と同じくらいの新田があった様で、やはり50万石クラスの大藩でした。
 江戸時代を通じて他の諸藩は概ね何十万両という借金を背負うのですが、土佐藩の治世は比較的安定して推移しています。
やはり明治維新を牽引する藩ともなれば、経済力が重要…という事になりますね。
 
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東京フォーラムの建物は、こちら側(電車内から見える)の姿が馴染み深いですね
 
 土佐藩と言えば坂本龍馬です。
龍馬は二度ほど江戸に登っていますが、上屋敷と中屋敷(築地)を行き来しながら滞在していた様ですね。
 
 江戸での目的は“剣術修業”だったので、北辰一刀流の千葉定吉の道場に入門して通っていたそうですが、この千葉道場は八重洲にあり、どちらの藩邸あも2~300mの距離ですから、龍馬の行動範囲は意外と狭かった…という事ですね。
 三田の薩摩藩邸から小石川の水戸藩邸に通っていた西郷どんとはえらい違いです(^-^;