茨城の城   小坂城    登城日:2018.2.18
 
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 城郭構造    平山
 天守構造    なし
 築城主      岡見弾正忠治資
 築城年      天文年間(1533-1555) か?
 主城主    岡見氏
 廃年      天18年(1590
 遺構       空堀、土塁
 指定文化財  なし
 所在地     茨城県牛久市小坂町字愛宕山
 
 
 木原城の次は牛久に向かいますが、途中に小坂(おさか)城というマニアの評価が高い城址があるので、ちょっとだけ寄り道して行きます。
 
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城址公園入口 高原リゾートみたいな木製の洒落たデッキ階段があります
 
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看板類はとても見やすく充実しています
 
 
 この城は小田氏から分家した岡見氏の支城だと言われています。
小田氏系図によると9代:孝朝の弟の邦知が初めて岡見を称しているので、邦知が岡見氏の祖と思われますね。 南北朝争乱の頃の事です。
 
 岡見氏は3kmほど北西の岡見城を本拠にしていましたが、小田家家伝で「岡見氏当主は備中守を称し、1万石の小田一族大名」  とされていますから、支城も幾つか持っていた事でしょう。
その一つがこの小坂城であり、岡部領でも最東端に位置していました。
 
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1m単位の等高線でとても判りやすい縄張り図 大手は右上で、三ノ曲輪に入っていたと思われます 搦め手も、左の斜面を斜めに走る道の跡が判りますね
 
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デッキを登った平場 此処にも馬出しの様な小郭があった筈ですが
 
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二ノ曲輪との間の堀 折れを付けて技巧的ですが、サイズが古い時代の城である事を物語ります
 
 
 岡見氏の領地の信太郡は小田氏一族と土岐氏の係争地であり、小坂城は土岐氏勢力と対峙する役割で築城されたのでしょうね。
 
  天文17年(1548)には小坂城をめぐる戦いの記録があり、南に接する泉城に拠る東条重定と援軍の土岐勢が攻め寄せて来て、岡見氏も小田氏の援軍を得て激闘となりましたが、東城重定が討死して、土岐勢は引き揚げた(小坂合戦)と言われています。
 
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三ノ曲輪への虎口 この辺りは堀も埋まってて、構造がよく判りませんが図で見ると土橋でそのまま城門だった様です
 
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三ノ曲輪200坪ほどの平場で、地面はかなり畝っていますが、これは雨の浸食ですね
 
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四ノ曲輪は普通の民家程度の規模ですが、発掘調査の結果陶器類が多く出土しており、倉庫もしくは会所の様な機能でした
 
 
 岡見氏は後に牛久城を築城して本拠として移りますが、小田氏が佐竹氏に降伏して滅亡すると、独自に佐竹氏に抵抗して戦い、北条氏に支援を求めて北条傘下となり、領地を死守しました。
 
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四ノ曲輪と二ノ曲輪の間は二重堀になっています
 
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二ノ曲輪への虎口は一ヶ所のみ 全体の雰囲気は所沢の滝の城に似てますね
 
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二ノ曲輪の虎口から三ノ曲輪を観ると2m近い高低差がつけてあります
 
 
 天正18年(1590)、北条氏が滅亡すると岡見氏も所領を失いますが、一族は新たな支配者の徳川氏に仕官して生き残り、旗本の他にも紀州家、水戸家、彦根井伊家などにその名が見えます。
 
 小坂城もその時に廃城となったと言われますが、天正15年(1587)頃に岡見治広が北条氏に出した「岡見氏本知行等覚書」には小坂城の名前は無いし、戦国末期の鉄砲戦の改造の痕も見られないので、それ以前に廃城となったのでしょうね。
 
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二ノ曲輪の西側はだんだん細くなり、最後は土塁となって、二重堀構造になっています
 
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二ノ曲輪は平坦で、土質もフカフカなので、近年までは畑だったかも知れません
 
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右手は一ノ曲輪ですが、此処も堀と土塁で仕切られます この城の規模で土塁はともかく、二ノ曲輪まで攻め込まれた時、堀にどんな効果があったか疑問ですね
 
 

 
  小坂城は国道408沿いの段丘上にある崖端城ですが、文化財指定が無いためか入口の看板表示が控えめなので、一度通り過ぎてしまいました。
 しかし、登って行くと意外にちゃんとした整備がされています。
4台分の“見学者駐車場”が完備され、看板類も充実し、草木の手入れも適切で、とても見やすい城址です。
 
 支城なので城域は広くはなく、四つの郭も小規模です。
それに堀や土塁の規模も小さくて、弓矢仕様の城なのは歴然ですから、ひょっとしたら室町期以前から有った城かも…。
 
 しかし、縄張り図でも判りますが、小さいなりにとても技巧的な縄張りを用いていますから、岡見氏自体が築城に長けた氏族だったのは間違いないでしょう。
 
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本丸の一ノ曲輪に入って行きます
 
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一ノ曲輪も200坪程度の広さで、フラットです
 
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三方を土塁に囲まれていて、南側だけは一条の柵だけで崖になりますが、これは近年の破壊の跡ですね

 

 

 すべてがまだ新しいので、近年に整備された城址公園だと思うのですが、それ以前は山林に眠っていたのでしょうかね? 入口の郭に神社でもあると触られにくいのですが、神社はありません。
二ノ曲輪は平坦で広いので、畑作が行なわれていたのかも知れませんね。
 
 気になるのは、歩いて見ると土質がサラサラで柔らかいのです。保全にはあまり樹木を伐りすぎない事が肝要でしょう。
 そして誠につくづく残念なのが主郭である一ノ曲輪の破壊ですね。
他の保存状態が良いだけに、肝心の城の顔だけ壊された“首の失われた仏像”みたいな感じです。
 
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一ノ郭の西側に残る土塁上から見た堀と外側の土塁 本来はこの構造が一ノ曲輪全周を取り巻いていた筈です
 
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下の道の工事で一の曲輪の1/3と土塁、堀が削り取られた様です
 
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テント倉庫の辺りまでが城址だった様です 向こうの森はもう土岐氏の領地ですから、まさに最前線の城ですね
 
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旧道は城址を避けて通っていた事が判りますが 道路を直線にするだけの目的で破壊したとすれば、とても残念な判断です