栃木の城  茂木城   登城日:2018.1.21
 
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 別名       桔梗城
 城郭構造    山城
 築城主      茂木(もてぎ)知基
 築城年      建久年間(1190-1199)
 主城主     茂木
 廃年       慶長15年(1610
 遺構         郭堀、土塁、池、櫓
 指定文化財   県指定遺跡
 所在地       栃木県芳賀郡茂木町大字小井戸字城山
 
 
 ♪流れる雲城山に 登れば見える君の家 灯りが窓に灯るまで 
 見つめていたっけ逢いたくて あぁ青春の思い出は わが故郷の城下町
 
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 年代がバレますが、茂木城に来るとこの歌が自然と脳内を流れます^_^;
歌詞の通りに城址と城下町で暮らす人たちの距離感が絶妙で、理想的なバランスでピッタリ合うのが、この茂木城です。
 
 岐阜城みたいに城下が遠すぎても、見下ろしてると変質者で通報されるほど近すぎてもいけません^_^;
 この町の出身で余所で暮らしている人達は(歌は昭和30年代前半生までの人ですが)、きっとこの景色をそれぞれの思い出とともに心象風景してるのでしょうね。
写真の右上には茂木駅から発車するSL、ノスタルジーですね。
 
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御覧のように、山上完結型のかなり大規模な城です
 
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本丸土塁です 土の城には違いないのですが…
 
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攻め落とすには、かなり厳しいのがこの写真から判って貰えるでしょうか(^-^; 
一面の水仙の株、もうすぐ咲きますね
 
 
 茂木城は宇都宮宗綱の二男:八田知家が源頼朝の旗上げに従って活躍し、下野茂木郷の地頭職を賜わった事から始まります。
 知家は後に常陸守護職となり、常陸小田で小田氏を起こし、鎌倉幕府の13人合議制の一人にも連なる有力御家人になりますが、茂木は三男:知基に与えて茂木氏を名乗らせました。
 
 その知基が築城したのが茂木城で、以後宇都宮氏の一族として支配して行きます。
 宇都宮からはかなり遠隔地ですが、いつ裏切るか判らない芳賀氏や益子氏の背後に居座る形になり、宇都宮氏の繁栄に一役買った氏族なのは間違いないのでしょうね。
 
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本丸内は充分に広くて、奥の土塁に囲まれたエリアが主殿跡かな?
 
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北側土塁も急角度で落ちていますね
 
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本丸の尾根続きは、この様な捨て郭で守られ、気合の入った城です
 
 
 しかし戦国中期、“宇都宮錯乱”の混乱に乗じた佐竹氏に攻められて降伏落城し、以後は佐竹氏の傘下で生きて行く事になります。
 天正13年(1585)には北条氏・結城氏の連合軍が侵攻して来て、一度は城を占拠されてしまいますが、佐竹氏の援軍が来るとすぐに奪回しています。
 
 文3年(1594には茂木氏16代:茂木治良は佐竹義重の命によって、新たに得た常陸小川城と配置転換され、茂木氏の茂木支配は終わります。
 後には佐竹氏譜代の須田治則が入って来ますが、5年後に佐竹氏は秋田に転封となり、須田家も移転して行きました。
 
 代わって茂木には細川忠興の弟:興元が入って来ますが、石高が1万石の小身でもあり、城下に陣屋を設けて藩庁としたため、茂木城は廃城となりした。
 
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向こうの檜の森は“居館跡”と言われていますが、果たしてそうでしょうか? 会所機能の郭では?と思ったりします。
 
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“千人溜り”と命名されてる武者溜まりの広場  しかし城域の広さといい、茂木氏に千人の動員能力が有ったとは思えないので、最後は佐竹氏の前線基地だったのかも知れません
 
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こちらは三ノ丸と馬場跡と言われる重臣屋敷の跡です しかし御覧の惨状で山城オタクをも拒んでいます
 
 
 最期に出丸と呼ばれる郭にやって来ました。
城下の様子がよく見渡せるこの出丸には、蛇姫の伝説というのがあります。
 
 佐竹氏の秋田転封で須田家も引っ越すのですが、何分にも様子の判らない遠隔地の事で不安が先立つ為、まずは男衆が主体に越して行き、現地が落ち着いてから女房子供も移る事になりました。
しかしこれには数年掛かった様で、残された人達は不安が募ります。
 
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武者溜まりから出丸への橋です
 
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出丸には物見櫓風の展望台が造られています
 
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此処から見る城下が、一番当時のイメージかも知れませんね
 
 
 そのうち夏が来て、新しい領主の細川氏は領民慰撫の祇園祭りを盛大に行ないますが、これに参加しにくい須田家の人達はこの出丸に集まって見下ろしていたそうです。
 その寂しげな姿を見た領民たちは、子供達に『二本杉の出丸には恐ろしい蛇が出るから行ってはいけないよ』と諭して、彼女らの心情を気遣ったそうです。