強力な冬将軍の到来で、関東一円は真っ白な朝です。
川越も20cm以上の積雪で、愛車“N箱号”もこの有り様です(^-^;
 
イメージ 1
 
 
  先週末はとても良い天候に恵まれていたので、月曜日は休暇を貰って、土~月の3日間で栃木の城+2を巡って来ました。
 いづれもその昔、栃木在住時に登城済みの城址ばかりなのですが、このブログで未紹介の見どころのある城を選んで、写真データの収集を兼ねて駆け足で廻って来ました。
 
イメージ 27
今後、随時アップして行きますね。
 
 
 
 

栃木の城  足利城  登城日:2018.1.20

 

イメージ 2
 
 
 別名       両崖山城、飯塚山城、小屋城、栗崎城
 城郭構造   山城
 天守構造   なし
 築城主      足利成行
 築城年      天喜2年(1054
 主な改修者  長尾景長
 主な城主   足利氏(藤姓)、長尾氏
 廃城年      天正10年(1590
 遺構        土郭、堀切、腰郭
 指定文化財  市指定史跡
 所在地      栃木県足利市本城1
 
 
 
 足利には“鑁阿寺(足利氏館跡)”という日本百名城に指定された城遺跡があります。
もちろん室町幕府を開く足利尊氏に繋がる足利氏の発祥地で、その居館跡という歴史価値に依るものなのですが、居館が有れば“詰め城”もある筈 という発想でこの足利城を位置づけると、これが全く違うのです。
 
 
イメージ 3
渡良瀬川を渡ると正面に見えてくる山:両崖山 その山上に足利城址はあります
 
イメージ 4
目指すのは両崖山中腹にある織姫公園駐車場  まだ早朝ですが、登城口前の駐車場の空きはわずか。 向こうに見える前方後円墳の向こう側に大きい駐車場がありますが…。
 
 
 足利城は平安中期の1054年に、この地の豪族の足利成行が、居館に連なる詰め城として築城しました。
また訳のわからん事を…』となるでしょうが、この足利成行とは藤原秀郷の6代後の子孫で、この地に定着して“足利氏”を名乗っていました。
言わば“元祖:足利氏”な訳で、便宜上“足利氏(藤姓)”と呼ばれています。
 
イメージ 5
登城路は広く良く整備されていて、足跡の多さから見学者がとても多いだろう事に気付きます
 
イメージ 6
それもその筈、此処は足利でも有名なハイキングコースみたいで、朝から沢山のハイカーとすれ違います 少し先輩の6~70代が中心ですが、歩く事と考える事はとても大事な世代です。
 
 
 その足利庄に源氏の足利氏が入って来るのは康治元年(1142)の頃で、源義家の4男の義国が下野国の足利郡、簗田郡、そして上野国の新田郡一円の領主となった事に依ります。
 
  この義国という人は何かと問題行動の多い人で、中央には居場所が無く、関東に常住し領国経営に専念していた様です。
 
イメージ 7
最初の尾根道は、まさに両崖山(^-^; でも道が広いので不安感はありません
 
イメージ 8
尾根道の最後はこの難所 守るに易い要害の始まりですね
 
イメージ 9
本丸跡の頂上までは…まだまだです
 
 
 この時点での義国と足利氏(藤)との関係ですが、足利の地を開発し収穫を上げる国人(開発)領主の足利氏に対し、義国は領内の諸郷の管理監督者です。
 足利氏をはじめ各地の国人領主からの収穫の上納で利益を得ているのが義国であり、言わば主従の関係ですね。
 
 しかし、少し前の1108年に浅間山が大噴火を起こしており、領内はその降灰で荒れ果て、各国人領主にはその耕地の復旧が最大の課題でしたが、小規模の国人では力及ばず、郷村では農民逃散が相次ぐ惨憺たる状況でした。

 

イメージ 10
さらに進むと、長い岩登りが待っていました
 
イメージ 11
登りきる最後の部分が最大の難所
 
イメージ 12
狭い岩間の通路 ともかく侵入して見ますが…
 
イメージ 13
現代の日本人サイズでは無理!(^-^;
 
イメージ 14
その先に待ち受ける天然の枡形 通路は右に絞られ、岩の上から狙い撃ちされます
 
 
 これに眼を付けた義国は、全国から人を集めて自らの手で復旧作業を急ピッチに行ない、次々に荘園を立ち上げては直轄領にして行きます。
 その過程で、足利郡に開発した領地は二男の義康に与えて、新たに“足利義康(源姓)”を名乗らせます。
 また、新田郡での領地は長男の義重に与えて“新田義重”を名乗らせました。

 

イメージ 15
山頂側から撮影 岩の上は郭になり、後ろに堀切が掘られています
此処からの眺めは絶景です
 
イメージ 16
西には新田郡の金山城が見えます 新田氏系の岩松氏→由良氏の城ですね
 
イメージ 17
南西方向には渡良瀬川を挟んで富士山城址 源義国や源姓足利氏は当初この山(浅間山)を拠点にしてたそうです
 
 
 要するに、国人(開発)領主の自前化による勢力の拡大であり、これは地場の豪族達の伸びしろを横取りするもので、当然関係は険悪化した様ですが、表立って争乱に及んだ事は無い様で、強大勢力に育った足利氏(源姓に対し足利氏(藤姓)が忍従してた様子が伺われますね。
ともかく、足利には二つの足利氏が並立してた時代があったのです。

 

イメージ 25
南には足利市中心部 向こうの岩井山城址は、代官としてやって来た長尾氏が築城して居城にしました。
 
イメージ 26
そして東側の遠くには、敵対していた佐野氏の居城:唐沢山城址が望めます
 
 
 足利俊綱(藤姓)、足利義兼(源姓)の時代になると、平家の専制支配に反発する朝廷・源氏との間に“源平合戦”が始まります。
 治承4年(1180)の以仁王の挙兵で、清盛の招集に応じた足利俊綱(藤姓は“宇治川の合戦”において“千載一遇のチャンス”とばかりに大活躍し、清盛から恩賞を貰っています。

 

イメージ 23
いよいよ本丸が見えて来ました 真冬なのに汗だく(^-^;
 
イメージ 24
本丸に登る階段が思ったより長い…
 
 
 しかし、次いで伊豆で源頼朝が旗上げし、関東を平定して行くと、俄かにははその傘下に加わる判断ができず、足利城に籠って中立の姿勢を取ります。
この行為は頼朝には許されず、三浦義村の指揮で大軍が派遣され、足利城は包囲されます。
 
 わじと見た足利氏(藤姓)は当主:俊綱の首を差し出して開城降伏し、これで足利氏(藤姓)は滅亡しました。

 

イメージ 21
やっとの思いで階段を上るも、さらに続きます…
 
イメージ 22
やっと本丸(山頂)です(*_*)
 
 
 足利氏(藤姓)の居なくなった足利庄には、晴れて足利義兼(源姓が入り、居館(現:鑁阿寺)を構えますが、すぐに鎌倉幕府が成立し、日常の居館は新たに鎌倉に構えた為、足利城は詰め城として整備活用される暇もなく、放置された様です。
 
 鎌倉時代の足利氏(源姓)を語る時、足利が本拠地で日常は足利に居た様に書かれたりしますが、実際には主要な御家人の足利氏は鎌倉に常住していました。
 父祖の足利には菩提寺である鑁阿寺と僅かな寺領が有ったのみで、所領の多くは三河、美濃、播磨、備後などに有りました。
 足利の居館跡を菩提寺に変えて行ったのはその必然からです。 
誰も書かない事ですが

 

 
イメージ 19
岩が主体の山だから、石垣が無くてもこの角度を維持し続けてるんですね
 
イメージ 20
尾根続きの裏側は、堀切と郭が三重に連なって侵入路を遮断していました
 
 
 その足利氏が将軍になり室町幕府を開くと、足利庄は足利氏の直轄領に戻され、その管理は代官として長尾氏の長尾景人が派遣され担って行きます。
 長尾氏は足利氏とは深い縁戚にある上杉氏の執事の家柄で、上杉氏の派生に伴って多くの家が派生して行きました。
 足利の長尾氏は“足利長尾氏”と呼ばれ、戦国末期まで生き残ります。
*同様に越後に派生した長尾氏の末裔が長尾景虎(上杉謙信)です。

 

 
 
イメージ 18
本丸にある説明看板とはうらはらに、自然の地形を最大活用した中世の山城の遺構の殆どが遺っていますよ
 
 足利長尾氏は関東管領:上杉氏に与力して、古河公方を担ぐ周辺の岩松氏、桐生氏、佐野氏などと抗争しながら足利庄を維持して行きますが、その過程で三代後の政長の頃、居城の岩井山城からより堅固な足利城に移り、戦国の城に整備して居城とした様です。
 
 上杉氏が謙信の死で関東から退去して、北条氏の圧力が強まるとやむなく北条傘下に降った様、豊臣秀吉の小田原征伐では当主の長尾長は小田原城に籠城したまま敗戦となりました。
 この時、足利城も廃城になった様です。