
タチンダイを出て遊歩道に戻り、源氏山を目指します。
このルートは正規の遊歩道ではないので難渋しましたが、1kmあまり歩き、途中の正規の道に戻る地点に頼朝ゆかりの佐助稲荷神社があるので寄って行きます。

正規のルートでない抜け道は、看板に手書きで→源氏山

予想通りの半分ケモノ道ですが、無名の山城歩きではこんな道ばかりですからね(^-^;
古い稲荷神社で、蛭ヶ小島に配流中の頼朝の元に以仁王の綸旨が届いた時、決断できない頼朝はその夜から高熱を出し、寝込んでしまいました。
するとこの社のお狐様が翁の姿になって三夜にわたり夢に出てきて、旗揚げを促したため、頼朝は決断したといいます。

山から下って訪ねる人は稀ですが、鳥居のトンネルから登ってくる人は沢山居ます

お狐さん、豪徳寺の猫さんより多いですね

境内に出る湧き水は“霊泉”として大事にされてます
のちに頼朝は社殿を再興し、領地を寄進して神社は興隆しました。
流人当時の頼朝は官職が“右兵衛佐”で、周囲からは『佐(すけ)どの』と呼ばれており、『佐どのを助けた神社』という意味でいつしか『佐助神社』と呼ばれる様になったそうです。
次はいよいよ源氏山へと登って行きます。

源氏山という名がついたのは、後三年の役(1083)の際に東征に向かう源頼義がここで源氏の旗を立て、石清水八幡宮に戦勝を祈願した古事によるもので、頼朝も先祖に倣って旗上げの儀式を行なった場所だそうです。
現在は公園整備がされた丘陵になっており、頼朝の大きな銅像があります。

源氏山に立つ頼朝像 凛とした若武者風の造りですが、旗上げした時の頼朝はすでに33歳でした…

① ② ③ ④
源頼朝 本物はどれだ?
①は京都神護寺蔵の『伝源頼朝画像』で国宝ですが、近年足利直義画像である事が濃厚に なっています。
直義も頼朝に近い匂いのする人だから、国宝のままでいいのでは?
②は東京国立博物館蔵の『伝源頼朝座像』、鶴岡八幡宮に伝わった木像で、北条時頼や上杉重房の像と同時に造
られた様で時代が合いません
③は鎌倉補陀洛寺にある『源頼朝座像』で、自彫り像だと言われるシロモノですが…
『チャラ~ン!』 とか言いそうですね^_^;
④は甲斐善光寺蔵の『源頼朝座像』で、北条政子の指示で造られたものという事が確実の様で、どうやら本命っぽい
ですね。 う~む…。
源氏山は住宅地の開発も進んでいて、峻険な山ではなく高原地形であったのは意外でした。

険しい切り岸に囲まれてはいますが、上段にはまとまった平地があります

源氏山からは相模湾を望めます
また、ここには『化粧坂』と呼ばれる難所があって、鎌倉七口のひとつとして数えられています。
化粧坂口は、当初は武蔵、上野からの入口でしたが、鎌倉時代には東国からの出入りの殆んどは此処から行なわれていたそうで、最も主要な出入り口であった様ですね。
化粧坂(けわいざか)というちょっと変わった名前、その由来ですが、
・険(し)い坂道という語呂から来るものの他に
・平家の武将を首実検する際に、この坂の上で化粧を施したから
・遊女が呼ばれて鎌倉市中に入る前に身なりを整えた
・坂の上に商人が集まって取引を行なっていた=『気和飛坂』
などの説がある様です。
最初のは別にして、坂の上に何らかの施設があり、鎌倉に入る前の準備が出来る機能が有った気がしますね。

化粧坂Ⅰ 登りに見えますが急な下りです(^-^;

化粧坂Ⅱ こんな凸凹道が主要道路だったとは… 物流を蔑ろにしてはいけません。

こちらは逆の佐助谷に下りていく七曲り ギザギザの道があるの判りますかね?
ここで気付いた訳ではありませんが、化粧坂を地図上で見た時、鎌倉郭内の佐助谷と扇ガ谷とを隔てる尾根の扇ガ谷側にあって、郭内と郭外を隔てる切通しの様な場所ではありません。
郭外からの虎口はもっと東の梶原にあり、源氏山から鎌倉市中に降りて行く『化粧坂』が象徴的なので、化粧坂口と呼ばれてるだけの様な気がします。

少し西へ下って見ましたが、宅地開発がされてて確証は得られませんでした
化粧坂を降りた谷間は扇ガ谷と呼ばれています。
鎌倉上杉家の2代:頼重の子:重顕は分家して、此処に居館を構えたので“扇谷上杉家”と呼ばれました。

途中にあった半壊のやぐらと墓碑 “水鑑景清大居士”が気になって、後で調べたらどうやら伊藤景清みたいですね。建設労務者に化けて鎌倉に潜入し、頼朝を狙った景清でしたが、バレて捕縛され牢で獄死した…のかな?
次に訪ねるのは、その上杉家の氏定が応永元年(1394)に再建した『海蔵寺』で、新田義貞の鎌倉攻めで焼失していました。
この寺は四季折々に花が咲き、それが人気で観光客も多めですが、内側に向けた切り岸の様子が見事に見られます。

鎌倉十井のひとつ『底脱の井』

海蔵寺境内 紅葉にはもう少しでした
内側の切り岸とは、外の切り岸を乗り越えた外敵が山を越えて郭内に侵入して来ても、この切り岸がある為に降りられない…という効果を狙ったものと思われます。

北条の城を思わせる竪堀状の切り岸ですね
当時はこの構造がまるで“長城”の様に鎌倉を取り囲んでいた訳ですね。
この切り岸にも随所にやぐらが掘られていて、この海蔵寺のものは特に立派に見えます。

大きなやぐらが掘られています

この規模だと、住居用に掘ったものでしょうね
海蔵寺を出て、亀ヶ谷切通しへ向かいます。

道沿いにあった岩船地蔵堂 大姫(頼朝の長女)の持仏だった地蔵様を祀っています
大姫と木曽義高の遺跡は次回訪問時にレポートします
この切通しは鎌倉七口の中でも最後に造られた切通しで、もう鎌倉末期になっての開通でした。
現在は一般車道としても使われているので、切通しも深く掘り下げられて傾斜も緩和されていますが、当時は亀でもひっくり返るほどの急坂で、『亀返し坂』と呼ばれたのがその語源という説もあります。

新田義貞は最初は巨福呂坂口と亀ヶ谷口に主力を配して攻めましたが、どちらも突破できませんでした
すぐ東に『巨福呂坂口』があるので、鎌倉末期になると街道が整備され、大船方面からの通行が主となった為の“渋滞緩和策”として開削された切通しなのかも知れませんね。

坂を下りて行くと北鎌倉の山ノ内エリア
次回は山ノ内の寺院群です
つづく