超大型台風の接近で終日雨降りとなった土曜日、市立博物館で徳川家康と天海という企画展が開催中だったので、覗いてみました。
 
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 展示は天海に関する書画と座像がほぼ全てで、家康との関わりについては、4回に分けて行われる講演で…という事みたいです。
残念ながら講演は限定先着20名で即日満了だったらしいです。
 
 喜多院に来る前の天海は上野世良田の長楽寺住職でした。
そういえば徳川家が発祥の地と主張する世良田にも一度行って見なきゃと思っていたので、その脚で向かう事にしました。
 
 
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 川越から世良田までは約50kmクルマでは2時間弱の道のりです。
土曜日ですが雨のお陰で人出が少なく、概ねスイスイ走れました。
 群馬県太田市世良田の長楽寺をナビ指定しますが、長楽寺の一帯は太田市の“新田荘遺跡歴史公園”として整備されています。
太田市いえば百名城:太田金山城を擁する訳ですが、金山城からは15kmほど離れています。
 
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 公園内には長楽寺の他に、世良田東照宮と新田荘歴史資料館があります。
なるほど、上州新田郡といえば新田義貞、その新田氏の支族である世良田(得川)氏を祖と称した徳川家康、その家康を祀る東照宮という流れで、徳川氏のルーツが判る様になっているんでしょうか。
 
 
 
新田荘歴史資料館
 では、まずは時代順に資料館で新田氏を勉強してみましょう。
 
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資料館は随分と立派な建物でした
 
 
 新田氏の系譜は八幡太郎源義家の三男:義国まで遡ります。
義国は上野国碓氷郡八幡荘を領していましたが、後三年の役の帰途に下野国足利郷の立地に目をつけ、此処を農地開発して二男の義康を置き、足利義康と名乗らせ足利氏の祖とします。
 次には渡良瀬川を挟んだ上野国新田郡の開墾に着手します。
この地域は昔から良い耕地でしたが、嘉承3年、天仁元年(1108)の浅間山大噴火で降灰が厚く積もり、放棄地状態でした。
開墾に成功した義国は此処を長男の義重に与え、新田を名乗らせて、この新田義重から新田氏が始まるのです。
 
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 足利と新田、どっちが義国の嫡流なのか? これは後の世を考えると難しい問題ですが、生母の出自で見た場合、
 足利義康 = 斎院別当源有房(正五位下)の娘
 新田義重 = 文章博士・藤原明衡(従四位下)の娘
ですから、新田義重の方が年長でもあり、義国の嫡流と言えます。 
心なしか性格も似ている気がしますしね(^-^;
国もその後は新田の館で暮らし生涯を終えています。
 
 
 そんな意識があってか、義重はその後、積極的に支配地域を拡げ、山名氏、里見氏など分家を置いて北関東の最有力者へとのし上がって行き、南関東の源義朝の勢力や甲斐源氏:武田義信とも姻戚を結んで、一大勢力圏を造り上げました。
 
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展示には天海の物も沢山あります
座像は娩年ながら生前の姿を模したものらしいですが、天海さん足がありませんね(^-^;
 
 しかしその分、頼朝の挙兵には足利氏や分家衆がその旗下に参じる中、プライドが邪魔して参加が遅れ、頼朝の不興を買ってしまい、鎌倉幕府の成立には乗れませんした。
 
 足利氏が幕府の要職を務め、山名、里見などの分家が独立した御家人として重用される中、新田宗家の格付けは低く置かれたままでした。
そんな処遇に憤ったのか、新田氏4代:政義は職務を放棄して突然出家してしまうに至って、幕府は新田氏の所領を取り上げ、分家の世良田氏に与えてしまい、新田一族は足利氏の保護下に置かれてしまいました。
 その後の新田一族の当主の名前が足利氏が継承する“氏”の字を使うのはその為で、8代:新田義貞が氏を使っていないのは、偶然足利高義が烏帽子親だっただけの様です。

 

 正慶2年(1333の鎌倉攻めも実は、足利尊氏の主従関係からの指示によるもので、京での尊氏の挙兵に呼応したものでした。
その証拠に義貞の号令に呼応して集まった倒幕兵は5千ほどでしたが、鎌倉を脱出した義詮(尊氏の嫡男)が合流すると一気に20万に増えたといいます。
 
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資料館の前にある新田義貞像
♪七里ガ浜の磯伝い 稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし古戦場~

ご存知とは思いますが… 鎌倉の極楽寺口から攻めた義貞は北条方の強い抵抗と要害に阻まれて攻め込めません。そこで稲村ケ崎から水神に太刀を捧げたところ、海水が二つに割れて道が現れ、そこから攻め入って鎌倉は陥落したのです  の姿ですね。
 

 しかし、義貞もまた自尊心は人一倍強く、建武の新政後はライバル心からか尊氏とは常に反対の立場を取ります。
氏と後醍醐帝の関係が決裂した時も、選ぶ道は一択でした。
新田系の分家筋までもが武家VS朝廷の立場からこぞって尊氏を支援した事からも、義貞の行動理念の基が何なのか覗えますね。
 その結果、自身の地盤の弱い義貞に戦力、戦術ともに対抗する力は無く、最後は越前で敗死してしまいます。
新田宗家はこれで滅亡してしまい、新田の血脈だけは岩松氏などの支族の中で細々と受け継がれて行きます。
 

 

 しかし、江戸時代に徳川氏が新田氏を始祖に定め、さらに江戸末期からの尊王気運の高まりの中で、天皇側に付いて戦い戦死した義定は楠正成とともに神格化され、教科書にも載って誰でも知ってる武将になります。
一発逆転を狙った史実と後世の権力者の都合の良い活用とのギャップ面白いものですね。
 

 

 
長楽寺
 長楽寺は最初は臨済宗の寺院で、承久3年(1221)世良田義季による開基の世良田氏の菩提寺でした。
 
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長楽寺総門ですが、意外に質素です
 
 義季は新田義重の四男でしたが、家督を継いだ嫡男:義兼とは同母弟であり、同じく分家した山名、里見の弟達が碓氷郡を領したのに比べ、新田本領の南部の世良田郷を継いで、世良田義季を名乗り、新田宗家を支えて行きます。

 

 後に徳川家康が“源氏支族である徳川家の祖”とするのがこの世良田義季です。
 
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本堂です “ボケ封じ”にご利益があるらしく、シッカリ拝んで来ました
 
 義季は吾妻鑑において“徳河義秀”と記録された文書があり、字は誤記と思われますが、“得川義季”を名乗っていた時期がある様です。
 世良田郷を貰った義季は新たな領地開墾にも取り組み、利根川の氾濫原だった場所に堤防を築き、新田を開発します。
季は“利根川から得た”その土地を“得川”と名付けました。
 
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勅使門 が有りますが、世良田氏に勅使が来たんでしょうか? 江戸時代の建造ですね。
 

 義季の後は長子:頼有が得川郷を受け継ぎ得川頼有を名乗り、世良田郷は二男の頼氏が継承した様ですが、得川頼有以後の子孫の記録は無く、早い時期に得川郷は頼氏の領地へと編入された様です。
 この世良田頼氏は幕府からも信頼を得ており、“新田一族の第一人者”という扱いだったそうで、任官はなんと“三河守”でした。
 
 
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三仏堂は重文です
 
 長楽寺は新田一族だけでなく、なぜか鎌倉幕府からも室町幕府からも帰依されて、関東十刹のひとつと言われる大寺院でした。
 戦国末期、この寺には天海が住職として住んでおり、その際に臨済宗から天台宗に改宗されたそうですが、その時期は正確には判りません。
 それ以前の天海は蘆名盛氏の招聘で会津の黒川城内に居たそうで、盛氏の没年(1580)から1588年に川越の無量寿寺北院(喜多院)に移るまでの8年間長楽寺に居た可能性があります。
 
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太鼓門も良い味出してますね
 

 徳川家康との関係で言えば、家康が德川に改姓したのは1566年の事であり、長楽寺も無量寿寺も北条領内ですね。
ただ、徳川と北条は対武田で同盟して以来パイプがあり、世良田を父祖の地とする家康が世良田氏の菩提寺の住職と会話する機会はあり得るでしょうから、その時にこやつ、使える!と思ったのが最初の出会いかも知れませんね。
 
 
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世良田氏累代の墓所 看板が無いのでどれが誰のかは判りませんでした
 
 

 

世良田東照宮
 長楽寺の南隣の世良田氏館跡には世良田東照宮が建っています。
東照大権現を祭神とする東照宮は全国にたくさん有りますが、まず最初に家康が埋葬された久能山東照宮、そして改葬にあたって江戸近在での法要が執り行われた仙波東照宮(川越)、そして改葬の地である日光東照宮が三大東照宮と言われています。
 
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 では、世良田東照宮は? というと、現在の絢爛豪華な日光東照宮が德川家光による“建て直し社殿”である事を知ってる人は多いと思いますが、それは家康の死後28年後の事です。
 その前は?と言えば、徳川秀忠による簡素な社殿があって、東照大権現が祀られていました。
簡素な社殿の訳は、秀忠がケチだった訳ではなく、日光山に小さな社を建て埋葬せよという家康の遺言によるものでした。
 
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随身門はお城に有る様な高麗門でした。 何処かの城からの移築か?
 
 しかし、日光を参詣した家光は、大好きな爺ちゃんの社がこれでは可哀相すぎる! と、予算を湯水の如く注ぎ込み、当代一の名工を集めて贅を尽くした社殿に仕上げたのが現在に残る日光東照宮なのです。
 じゃぁ、それまでの社殿はどうしたか?と言えば、父:秀忠が建てたモノですから廃棄する訳にも行かず、移築を考えたとき、天海の進言もあって父祖の地:世良田に移築された様ですね。
 
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拝殿ですが…かなりシンプルで、秀忠さんマジメ過ぎます
 
 家康が德川に改姓した1566年は松平氏が今川氏の臣下を離れて三河を統一した年で、家康の真の狙いは三河の統治を正式に朝廷から認めてもらう事、即ち“三河守への叙任”という目先の事だった様です。
 三河守は今川義元も自称していましたが、正式な叙任は南北朝期の河越高重を最後に空位になっていた様ですね。
 
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彫り物も随分控え目で、これは仙波東照宮にも及びません
 
 その際、三河山間部発祥の“馬骨”では具合が悪いので、祖父の清康が自称していた世良田氏に連なる清和源氏の末裔で申請した様です。
でも、世良田氏となると有名な氏族で、朝廷にもデータベースがあり、子孫も居て、“無理がある”のは明白です。
一族の里見氏や岩松氏に問い合わせても“そんな奴は居ない”と言うでしょう。
 
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本殿前の平唐門 これが、日光東照宮のあのコッテコテの陽明門にあたる訳ですから、違いというか差が判りますね
 

 朝廷からは一旦却下された“世良田氏”でしたが、家康から相談を受けた近衛前久は調査と思案の末にひとつの案を提示します。
世良田の一族に得川頼有のという者があり子孫の消息は明らかでない、得川姓で行こうというものでした。
 新田や世良田では強かった難色も、幾分かは和らぐのを狙ったものか、得を徳に変えたのもその一環かも知れませんね。
 これでも、朝廷は難色を示しますが、近衛前久も粘り、家康一代に限りという条件付きで徳川を名乗る事が許されて、源朝臣徳川三河守家康という宣下を引き出しました。
 
 
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最後に本殿 まぁ、他の建物とのバランスは合います
 

 当時は一国の守護大名に過ぎなかった家康は、嫡子:信康にも徳川は名乗らせませんでしたが、大身の大名となり、天下人となり、朝廷への影響力が増して行くに従って図々しくも徳川を名乗る者が増えて行きます。
最後は将軍家、将軍を出す御三家、御三卿は徳川を名乗らせて、既成事実化して行ったのです。
 同様に世良田でも、世良田氏の故地を自領にして税の軽減などで環境を整備し、菩提寺の脇に東照宮を祀る事によって、理論よりも万人に見える形で事実化して行ったのでしょうね。
 
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 いずれにしても真の実力者も天皇の名のもとに権威で飾る事が必要だった時代の事で、それが公家の糊口を凌ぐ手段になっていた背景があります。
 さぞや近衛家には大金が動いた事だろうと想像するのですが、家康さん例によって謝礼をケチってしまった様で、近衛前久の怒りの手紙が残っているそうで笑えますね。