イメージ 1
 
 甲斐の国山梨県に来ています。
これから武田氏の遺構・遺跡をいろいろ訪ねるのですが、 今回甲斐に来たのは先日入手した資料理慶尼記がキッカケです。
 理慶尼とは武田勝頼が最後に逢った親族で、尼はその時の様子や最期の時までを書物に残しました。それが理慶尼記なのです。
 
  まず最初は、この記述に添って武田勝頼が新府城を放棄してから、天目山で自害して果てるまでの9日間の足どりを辿ってみたいと思います。
 
イメージ 2
信憑性のある貴重な資料です 現代語訳は必要ですが…
 
 
背景
 まず武田勝頼の逃避行に至るまでの背景をザッと紹介しておきます。
 
天正3年(1575)、長篠で織田・徳川連合軍に大敗した武田氏ですが、広大な領土と兵力を背景にその後は一進一退を繰り返していました。
 一方、翌天正6年に越後で上杉謙信の後継を争う“御館の乱”が起こり、謙信の甥の景勝と北条氏からの養子の景虎が争いますが、調停に乗り出した武田勝頼は景勝を支持し、景勝が勝利した為、武田と北条の同盟関係は破綻して、また争う様になります。
 
 最初は東上野から北武蔵まで侵攻し優勢だった武田氏ですが、この機を捉えて徳川家康が北条氏と同盟を結び攻勢を強めます。
  さらに織田信長も乱後の上杉氏の弱体化で越中を押さえた事から、天正10年(1582)の武田討伐を決意します。
 
イメージ 3
勝頼の統治のまずさ…というよりも織田信長の勢いの凄さが、もう家臣を統率出来なくしていた気がしますね
 
 この事態に、武田家臣団の中でも木曽義昌、穴山梅雪などの親類衆重鎮が寝返りを決め、さらに間の悪い事に織田軍が領内に進攻を開始した2月には浅間山が噴火して、“悪い事の前兆”を予感した国人衆が雪崩を打って追従します。
 
 織田軍侵入を聞いて、兵1万5千を率いて諏訪まで出陣していた勝頼も、これでは戦いにならない事を察知して新府城に引き揚げます。
 
イメージ 4
信長の甲斐進攻をも現実として受け止めた勝頼は、躑躅ヶ崎館に替わる“戦える居城”を築き直したのですが…
 
 
新府城退去
 2月末日、新府城に戻った勝頼に従う兵は千名ほどだったと言います。
その後、三々五々と兵が戻って来ますが、その数は3千に満たず、広大な新府城を守りきるには到底足りない人数でした。
 この時点で勝頼は新府城での抗戦を諦め、何処かの要害城に籠って一矢報いる事を考えます。
候補としては甲斐東部の小山田領内にある岩殿城の一択であったと思われます。
 
イメージ 5
 
 よく、真田昌幸が自領の岩櫃城への撤退を具申したと言われます。
確かにこの時点で北信濃や上野の国人はまだ離反しておらず、上杉と合体した織田信長との戦いの戦略は描けるのですが、親類、譜代、外様を問わず次々に離反していく状況で、北信、上野の明日の状況など何の保証もなく、既に諏訪近辺まで織田軍が来ている状況で、岩櫃への行軍など到底不可能な事です。
 
イメージ 7
武田八幡神社の前から見る新府城址 七里岩の上にある小山が城址です
 
 新府城を後にする勝頼の心情としては、死出の道連れは信頼できる近臣と親族の一部(小山田信茂も入っていた)として、武田家の最後を綺麗に飾りたいと決意していたと思います。
 
 3月3日早朝、勝頼は嫡子:信勝をはじめとする妻子を連れ、小山田信茂を先導に近臣の兵500に護られて新府城を出ます。
是には主な家臣団の妻子(人質)も加わって、総勢は千名近くにのぼった様です。
 
 
武田八幡神社
 一行がまず向かったと思われるのは釜無川を渡った西岸にある武田八幡神社でした。(前日に訪れた可能性も有りますが)
 
イメージ 6
武田氏の氏神:武田八幡神社 甲府にある武田神社は信玄を祀った神社で、明治になってから創建されたものです
 
 
 この神社は甲斐武田氏の始祖:信義に始まる氏神で、甲斐に土着した信義はこの近くに居館を構え、神社の峰続きの白山城を詰め城として、韮崎一帯を支配したそうで、武田氏の原点だったのです。
(武田信義と白山城は後日個別にレポートします)

 

 この参詣は、来るべき岩殿城での決戦に備えた“戦勝祈願”が名目だった様ですが、勝頼の本心は力及ばず名門の武田家を滅亡させてしまう事を祖先の歴代当主に詫びる事だったのでしょう。
 
イメージ 8
『真田丸』より 退城後に城には火が掛けられ、一行は焼け落ちる新府城を振り返り見て涙したそうです
 
 甲州街道沿いにはその逃避行を伝える碑がいくつか残っていますが、当時は林間だった街道を長い隊列で移動する中で、兵士の脱走や人質の逃亡が相次いだ様です。
(真田昌幸の妻子もここで離脱したか?)
 
イメージ 9
イメージ 10
塩川北岸の甲州街道沿いには、こうした碑がいくつか残されています
 
イメージ 11
イメージ 12
こちらもほぼ同様な言い伝えです

 
涙の森~更科姫伝説
 武田八幡神社から釜無川、塩川を渡った東側の台地に上ノ山という土地があり、此処に涙の森と呼ばれる同様な遺跡があります。
新府城を落ちて行く勝頼一行が、ふと振り返ると炎上する新府城が見え、皆が涙した場所だという事です。
地理的な道程を考えると、武田八幡神社参拝は前日の事かも知れませんね。
 
イメージ 13
『涙の森』です
 
イメージ 14

中央の丘が新府城 此処からだとすぐ間近に見えます
 

 涙の森と言われる場所に来てみました。なるほど、新府城址はよく見えます。
周囲は台地上で水利が悪く、畑作地になっているので、当時は森だったのもうなづけます。
勝頼夫人の惜別の歌碑があって、それらしい整備がされてる様です。
 
 歌碑の周囲には古い石仏や石塔があって、この場所自体が寺院とかの遺構だった事を窺わせますが、さらに探すと更科姫屋敷跡いう看板を見つけました。
 
イメージ 15

勝頼夫人は北条氏政の妹ですが、勝頼の後室に入って5年、まだ19歳でした
 

 勝頼夫人ではなく、一族の姫の屋敷があって、焼け落ちる城を間近に見て涙した場所…』 と、咄嗟に解釈したのですが、こんな伝説がある様です。

 

 =更科姫伝説=
 北信濃の領主村上義清の家老落岩寺右馬介のひとり娘、1519年に信濃国更科村に生まれた。
 
 文武両道に優れ信濃一の女性剣士とし、又教養を高め美貌とともに、日本の女性三傑のひとりとして高く評価された。
 相木采女介依田幸雄を結ばれ、夫は武田信玄の家老馬場美濃守の身代わりとなって、名を相木美濃守信房と改め、遠州諏訪原城主となり、15年間の安泰を守り抜いた。
その間ひとり息子の幸盛(のちの山中鹿之助)を養育する。
 
 京を目指す幸盛と別れ、武田勝頼の命により高天神城を落とした夫信房とともに城代として8年間城を守ったが、家康の猛攻に憤死した夫の意思を受け、家臣たちを助けるため必死の苦境を乗り越え、富士川より甲斐に連れ帰り、道々家臣の安住を求めつつこの地に居を構え天満宮を祀り、夫、息子、家臣の回向をしながら生涯を閉じる。
 
 
イメージ 16

『更科姫屋敷跡』と言うものの、墓地があり仏像もたくさん有るので、お寺があった様ですね
 

 メジャーな名前がいっぱい出てきて、ファンタジーです。
相木美濃守信房と言いながら馬場信春(飛騨・美濃方面担当で長篠の戦いで戦死)そのものっぽい設定と思われます。
 
 信春自体が謎の多い人物で、こうした浪漫あふれるストーリーも面白いのですが、鹿之助と信春を結び付けるのは安易に過ぎます。
 そして、実際は9年間だった遠江での武田vs徳川のせめぎ合いが23年間にも及んでしまうのはいただけませんが、何らかの繋がりがあった故の伝承でしょう。
 
 そうした事を整理した上で、この謎の多い人物たちの結び付きを調べて繋げて見るのも一興かも知れませんね(^^♪
 
イメージ 17
更科姫の墓を探しましたが見つかりませんでした。
墓掃除をしてた地元の人も知らないそうです。 というか、更科姫自体が看板に書いてあるから知ってるだけだそうな(^-^;
 
(中)につづく