今回の大名屋敷巡りは、江戸城の北側に陣取った徳川譜代の主要な屋敷跡を訪ねます。
 
 
 
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38.若狭 小浜藩酒井家上屋敷
 藩主:酒井若狭守忠氏  藩祖:酒井忠利  石高:  10万2000石
 所在地: 新宿区矢来町ほか
 現状の姿:矢来公園周辺市街地
 
 
 酒井家といえば徳川四天王筆頭の忠次が有名で、今の大河ドラマにも出ていますが、酒井家は徳川家康の8代前の松平氏から分かれた支族で、ずっと松平氏を支えたため多くの系統の酒井家があり、幕末の時点で7家の大名家がありました。
 
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酒井家の藩邸は牛込の高台の上です。 全体がほぼ市街化しています
 
 大きく分けて2つの系統があり、忠次の系統を“左衛門尉家”、もうひとつの系統を“雅樂頭家”と呼んでおり、この小浜藩の酒井家は雅樂頭系です。
 家康の関東移封の時、三河西尾城主だった酒井忠親は隠居し、嫡子の重忠が厩橋城に配され、二男の忠利も川越城を任されますが、その忠利の系統が小浜藩酒井家となるのです。
 ちなみに、雅樂頭系宗家の重忠の家は播磨姫路藩15万石、左衛門尉系宗家の忠次の家は出羽庄内16万7千石として、後日レポートします。
 
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個人住宅が多く、まとまった土地利用はこの矢来町ハイツだけ…
 
 小浜藩酒井家の上屋敷跡は尾張名古屋藩邸の北500mほどの牛込矢来町にあります。
 此処の地形は名古屋藩邸の高台の続きで、谷を一本隔てた台地の最高点であり、城の縄張りで言えば登城路を挟んで隣接する曲輪みたいな位置関係になっています。
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 この地域は中小の旗本屋敷が多い場所で、小浜藩邸を取り囲む様に御先手組、根来百人組、大御番組、御持筒組などの組屋敷が配置されてて、有事の際には幕臣の一大勢力が集まる事ができるロケーションになっています。
 当初の酒井家には、それらの中心になり指図する事が役割として有ったのかも知れません。
 
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この矢来公園あたりが最高所っぽいから御殿の跡か? 城と違うから判りませんが…。
 
 
 小浜藩邸は図から判る様に、石高に比してかなり広大です。
此処を拝領した酒井家では、その広さゆえ防備の塀の造作に時間が掛かる事から、まず竹矢来(たけやらい)で囲んだそうです。
 竹矢来とは、時代劇で刑場で罪人を処刑する時、見物人を近付けない為に青竹をクロスに縛った簡易の柵が出て来ますが、あれですね。
それ以来この地は“矢来町”になったそうです。
 
 
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公園にある藩邸跡碑 杉田玄白は代々小浜藩の藩医でした
 
 その矢来町に藩邸の痕跡を探しますが、市街地となっていてなかなか見つかりません。
僅かに“矢来公園”に屋敷跡の碑があるだけですが、 中小の旗本屋敷が集まっていたこの地は、明治維新も都市計画の改造対象からは外れた様で、旗本の子孫がそのまま暮らしている感じがします。
 酒井屋敷の跡地も大半は家臣に配分されて、今もその子孫の住宅が立ち並んでいるそんなストーリーが脳内に浮かびました。
 
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市街地の中に能楽堂を見つけました さすが雅樂頭家の屋敷跡(^^♪
 
 
 酒井屋敷の邸内社だった秋葉神社が残っていました。
社殿脇に正雪地蔵尊とあるので、“これは只事ではない!”と思い調べてみました。
 
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右奥の色褪せた幟に“正雪地蔵尊”と書かれています
 
 神社は酒井家が飯田橋から移転したものですが、後で邸内の地中から地蔵らしきものが発掘されたので、神社の隣に祀ったのだそうです。
 
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地蔵様はとても地蔵の形はしていないと思うのですが…
 
 どうやら埋まっていた場所はキリシタン大名:大友家の屋敷跡らしく、禁教時に隠したモノの様ですが、由比正雪の屋敷もこの近所だった様で、維新の後の反徳川気運の中で、地元の人達が勝手に結びつけたモノの様です。
地蔵の正体は、祭壇の燭台では?という事らしいです。アーメン
 
神楽坂を降りて、次に向かいます
 
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昼間に神楽坂に来ると迷子になりそう(^-^;
 
 
 
 
36.下総 佐倉藩堀田家上屋敷】
 藩主:堀田相模守正倫  藩祖:堀田正盛  石高:11万石
 所在地: 千代田区神田神保町
 現状の姿:神田神保町2丁目地内
 
 
 続いては神田にポンと飛びます。(本当は高松藩邸から少し南下しただけですが…^_^;)
 
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 佐倉藩堀田家といえばハリスと日米修好通商条約を交渉した正睦が有名ですね。
 堀田氏は尾張の土豪で、堀田正吉は織田氏→豊臣氏に仕えていて、小早川秀明の家臣だったものの関ヶ原後の御家改易により徳川家に700石で仕官して旗本になりました。
 
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賑やかな靖国通りから少し北に入った白山通り沿いに藩邸はありました
 
 その少禄の旗本が大大名に出世するのは正吉の子:堀田正盛の時です。
 
正盛の母は稲葉正成の娘で、正成の継室に入ったのが春日局でしたから、正盛にとっては義祖母にあたる関係でした。
 
*なるほど、正盛は1609年の生まれだから、関ヶ原の時の小早川家家老:稲葉正成は堀田正吉と何らかの秘密工作の契約をするため、代償に娘を嫁がせたのか…。
 
 
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大通りには何も無いので路地に入ってみますが…
 
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平凡な住宅地が続くばかり
 
 その春日局の曳きで幼い頃から家光の近習として仕えた正盛は、家光の寵臣として物凄いスピードで出世して行きます。
 
 15歳で受け継いだ父の遺禄1千石は、翌年には5千石に加増され、その翌年の17歳には1万1千石で大名の列に加わりました。
 
更に24歳では2万5千石で城主格となり、26歳でなんと老中に任命されると3万5千石で川越城主になりました。
 
 
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昭和30年代は見つけました(^-^;
 
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地蔵さんがありましたが、由来は判りません
 
 29歳の時には遂に10万石の松本城主となり、大藩の藩主にまで出世しますが、老中から将軍の補佐(大政参与)に就任し、藩政に専念は出来なかった様です。
 
 その後33歳で11万石の佐倉藩主になると、堀田家は佐倉藩で固定され維新を迎えます。
 
動乱の時代ならともかく、安定した江戸期に一代で中級旗本から大藩の藩主への出世はあり得ない事で、“春日局人事”の凄さですね。
 
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夏目漱石が学んでいた「成立学舎」の跡みたいですね
 
 
 
 
 佐倉藩の藩邸跡は靖国通りから1本北に入った、白山通りに面した東側にありました。
 
此処も旗本屋敷の多かった場所で、その為か現在では個人住宅と商店が入り混じった雑居地区の感を呈しています。
 
屋敷跡の痕跡を探し回りましたが、結局何一つ見つける事は出来ませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
次は稲葉家と榊原家です  つづく