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赤堀城址からさらに西へ200m 菩提寺…と思われる“宝珠寺”があります
 
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藤原秀郷が将門討伐に際し、戦勝祈願をした場所で、秀郷没後に建立された供養塔があります
 
 赤堀家の祖が藤原秀郷である事は前回触れました。
秀郷は平安前期の人で“平将門を討った”事で有名ですが、その子孫達は関東にしっかり根を張って、特に上野下野、常陸の豪族の大半は秀郷系の同族と言っても良いほど繁栄していました。
  しかし支配者はと言えば河内源氏の源氏、足利氏が幕府を開いて支配し、秀郷系の国人達はその御家人という立場に甘んじています。
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赤堀家の台頭と伊勢移住
 赤堀家が初めて古文書に登場するのは室町初期の“観応の擾乱”における仕置きからです。
足利幕府発足後の1349年から3年あまり掛けたこの争乱は、足利尊氏と弟:直義の間で争われた戦いで、いち早く関東に下向して鎌倉を占拠した直義に対し、尊氏は下野国守護の宇都宮氏を追討に差し向けます。
  尊氏の東征に備えて駿河の薩埵山に布陣した直義は、背後に迫る宇都宮氏を迎え撃つべく配下の長尾氏等を派遣し、両軍は上野の那波郡で激突し、宇都宮氏が勝利した事で直義方は挟み撃ちの状態に陥り、降伏して乱は収束しました。
 
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 この戦いで活躍した上野の国人に香林又太郎直秀という者が居て、論功行賞で香林の領地の安堵と、周辺での加増を受けます。
秀は香林氏から嫡流の赤堀氏へと名乗りを変えて、以降の上野赤堀家の祖となります。
 
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 直秀とは別に、赤堀三郎左衛門入道勝渭という者にも旧領の回復と新たに伊勢国鈴鹿郡の野辺御厨の地頭職の沙汰があります。
入道勝渭と名乗るからには当時僧籍にあったのか 乱の直前の赤堀家が雌伏の状態にあり、嫡流は僧門で難を逃れ、一族は赤堀姓を棄てて香林などを名乗って息を潜めていた状況が推察できますね。
 
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墓石の様子からも寺の歴史の深さが窺えます
 
 鎌倉時代に伊勢に居たという赤堀下野守には辿り着けませんでしたが、これで赤堀家が鎌倉期からこの地を治め、室町時代に嫡流の赤堀家が伊勢へと移住し、赤堀復権の功労者の直秀が上野の父祖からの領地を継いだ経緯が見えた気がします。
 おそらく状況として、鎌倉末期の赤堀家は御家人で、新田義貞には与せず戦って没落した事と、観応の擾乱において伊勢の赤堀家は直義側だったのでしょう。
 
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赤堀さんは絶える事なく現代もこの地に根付いて、先祖の供養をして居られる様ですね
 
 
古河公方と関東管領の狭間で
 しばらく平和だった関東ですが、室町中期以降、永享の乱をきっかけに足利氏の鎌倉公方(古河公方)と足利幕府の意を受けた管領職の上杉氏が争う様になります。
さらに上杉氏は宗家:山内家と分家:扇谷家が争う三竦みの状態になり、国人達はその帰趨を巡って大混乱します
 
 赤堀家はといえば、上野の東から下野南部にかけての藤原氏系の小豪族の連合である“藤家一揆”という集団に加わって鎌倉公方を支える立場を取っていました。
 一揆いえば江戸時代の百姓一揆みたいに“武装蜂起した集団”をイメージしがちですが、一揆の本来の意味は弱者が集団を作って共闘する“労働組合”みたいなもんで、先の見えにくい時代を合議によって判断し同一行動する道を選んでいた様です。
 
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最後に赤堀城址の北方3kmにある天幕城址を訪ねました
 
 鎌倉公方を選んだ背景には、同族の中に影響力を持つ佐野氏、小山氏などの実力者がみな下野に居た事と、これらが公方の与党というより、山内上杉氏による関東支配を嫌っており、その象徴として公方を担ぐという実態がありました。
 しかし、上杉家には幕府という後ろ盾があり、信濃の小笠原、駿河の今川といった近隣守護の援軍もあって、総じて上杉方が押し気味で、係争地は赤堀家の地盤である東上野が中心になります。
 
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例によって出自の不明な城で、『あれは赤堀の城ではないと思いますよ…』との学芸員さんの声もありましたが、位置的に上野赤堀家の祖になった香林直秀の居城だったのでは? という思い込み(^^)
*香林家は赤堀家ではなく山上家の分家という説もあります(いずれにしても同族ですが)
 
 
 こうした中、赤堀家は各地の戦線に駆り出されては奮戦し、多くの討死を出していますが、それだけに信頼もされてた様で、鎌倉公方からも多くの感状や鎌倉寺領地の利権も得ています。
 
には、赤堀家が残暑見舞いに公方に熟瓜を贈って、公方の足利持氏からは美味であったぞよという、ほのぼのとした礼状書面もあったりします。
 
この頃の赤堀家は赤堀の地を追われて、新田郡北部の桐生に近い場所を本拠にしていた様です
 
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川に挟まれた連郭の縄張りは赤堀城と酷似しています
少なくとも北条流や武田流ではないな。
 
 
 その後、東上野の有力者であった金山城の横瀬氏(由良氏)が上杉方に寝返ります。
 
赤堀家にとっては隣接する大勢力だけに放置はできず、苦悩しながらも追随して上杉方に奔った様ですね。
 
 
 
 この時には旧領の赤堀に復され、現在に残る赤堀城(今井城)を整備・築城したのではないかと思います。
 
 以後、赤堀家は“藤家一揆”を離れて、那波郡から西上野にかけての国人組織“白旗一揆”に加わって行きます。
 
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広い主郭内は平坦で、大木の木陰があってしばしの涼を楽しめます
この木、なんと桑なんですよ!
 
 
 その間隙を縫って勢力を伸ばして来たのが相模北条氏(後北条)で、前述の三者が連合して戦った“川越夜戦(かわごえよいくさ)”で勝利すると、関東をほぼ席巻します。
 
 この時の赤堀家当主は上野守親綱で、新田金山城の由良繁成の配下だった様です。
 
由良氏は関東管領:山内上杉氏の配下だった為、親綱も川越夜戦に参戦しますが、この戦いで討死してしまいます。
 
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川越城外の東明寺にある川越夜戦の碑
北条氏の川越城占領に対抗し、山内、扇谷の両上杉家は連合し、古河公方とも連携して総勢8万の大兵で川越城を囲みますが、これに対する北条氏綱は8千の兵で駆け付けて、不利な和睦交渉で油断させた後、戦勝気分に沸く連合軍に一気に夜討ちを掛けて大勝します。
扇谷上杉の朝定は討死にし、扇谷上杉家は滅亡します。 関東の“桶狭間”ですね。
 
 
 
 
 直後、関東管領:上杉憲政から親綱の娘宛に発せられた所領安堵のお墨付きがあるそうです。
 
宛名が娘という事は、親綱には嫡男が居なかった(もしくは共に討死にした)という事になりますが、親綱の後継者としては赤堀影秀という名前が出て来ます。
 
は重臣:牧和泉守の娘だそうですが、この後の牧家の内輪騒動での影秀の動きと合わせて考えると、影秀自身が牧泉守の子で、赤堀家に婿入りしたという方が辻褄が合いますね。
 
 北条氏の攻勢に窮した上杉憲政は家来筋でもある越後の長尾氏を頼り、関東管領職と上杉の名跡をも譲渡して、関東での権勢の回復を図ります。
 
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現在の天幕城址は各種の花が咲く城址公園になっています
 
 
 
 
 
上杉(謙信)と北条の狭間で
 
 長尾政虎から名を改めた上杉謙信が三国峠を越えて攻め寄せると桁違いの強さに北条氏はたちまち劣勢となり、多くの領地を回復され、本拠地:小田原まで攻め込まれて小田原城を包囲されます。
 
堀家をはじめ、やむなく北条氏に服していた国人達も雪崩を打って上杉の元に馳せ参じた結果です。
 
 
 しかし、この年は飢饉の年で、兵糧に不安があった謙信は関東の抑えとして厩橋城に重臣の北条(きたじょう)高広を残して越後へ引き上げます。
 
この時、赤堀影秀には謙信より北条高広の寄騎が命ぜられ、由良氏の元を離れた様です。
 
 この後数年間、謙信は関東遠征を繰り返し、夏場は上杉氏が勢力を伸ばし、冬場に北条氏が奪還するというシーソーゲームが展開されますが、その都度帰趨を迫られて前線に立たされて右往左往するしかなかった関東(特に上野)の豪族達は著しく疲弊してしまいました。

 

 天文13年(1544)、北条氏が甲斐の武田信玄と同盟し、武田氏が北信濃での攻勢を強めると、余裕の無くなった上杉は関東での占領地を維持できなくなり、北条氏の勢力拡大を許してしまいます。
上杉の臣:北条高広の北条への寝返りでそれは決定的となり、赤堀家も自動的に北条傘下に入った様です。
 
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東側を守る水堀は蓮池が整備され、近郷の蓮の名所になっています
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来週末は『蓮まつり』が催される様です
 

ただ、赤堀家は赤堀の地と城を没収され、由良氏の外様的な扱いで金山の近くに居た様です。
赤堀城には北条氏政の直臣の小菅摂津守という者が入って、国人達に眼を光らせました。

 

 一時的に安泰となった関東でしたが、今川氏をめぐる対処で甲相同盟が破綻すると今度は武田氏が攻め込んで来ます。
上野をめぐる北条vs武田の争いは長く続き、赤堀影秀は北条氏直から沼田城の支城である阿曾城の守備を命ぜられて赴任していますが、武田の将:真田昌幸に攻められて大敗し、撤退した記録が残されています
 
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上州の帰趨をめぐる沼田城の攻防は激しく、支城群に籠る国人達の被害は甚大でした

写真は支城のひとつ長井坂城址
 

 武田氏滅亡後は織田の将:滝川一益が上野を掌握しますが、状況は変わらず、結局は秀吉の沼田仕置き~小田原征伐へと続きます。
 こうして強大な戦国大名同士の争いの中で、翻弄され続けた赤堀家ですが、最後に小田原の役で北条氏が滅亡すると所領を没収され浪人となってしまった様です。
 

 

その後の上野赤堀家
 上野に居場所を失った赤堀一族は徳川家康の家臣である成瀬正一を頼りました。
どんな接点があったのかは不明ですが、成瀬正一は三河の生まれながら若い頃には武田家に仕え、その後は北条家にも仕えていたそうで、家康の元に帰参した後は関東に詳しい事から重宝され、小田原の役の後は鉢形城の代官も務めて、付近に滞在しています。
 
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成瀬氏の居城だった犬山城

赤堀家はまず成瀬正一に仕官して武家として存続した様です
 

 また、拡大膨張する徳川家にあって有能な家臣の増員は最重要な課題であり、正一も成瀬吉衛門を尋ねよと立て看板を出して北条旧臣を積極採用していたそうです。
 血統好きな家康にとって名門藤原秀郷の血をひく赤堀家は血統上も申し分なく、徳川勢と直接交戦した事による遺恨も無いので、難なく採用されたのではないでしょうか?

 

 正成の代になり、成瀬家は尾張徳川家の付家老になって犬山城を与えられます。
この時、赤堀家は徳川義直の直臣として尾張徳川家に移り、明治まで続きました。石高は300石と伝わります。
 
 
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尾張徳川家の居城:名古屋城

江戸時代を通じ、赤堀家が登城してた城です
 

 

 

初めての試みでHKS48赤堀家の故郷、群馬県伊勢崎市赤堀を訪ねました。

 

 名前を同じくする地元ながら、思いの外存在が知られておらず、遺跡や資料が整備されていない事に驚きましたが、村史、町史にある様に、ひと昔前には研究していた学者さんも居た様で、たくさんの収穫がありました。

 

 小豪族が戦国時代を生き抜く事は何処でも難しい事ですが、上州の過酷さは本当に想像以上です。
そんな環境でも果敢に賢く生き抜いた上野赤堀家の足跡を少し垣間見れた満足感を持って伊勢崎を後にしました。

 

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次は春日部家です。