日本百名城 №52 観音寺城 滋賀県               登城日2017.4.2
 
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 別名            佐々木城
 城郭構造     山城
 築城主        六角氏頼
 築城年        応仁・文明年間(1467- 1487年)
 主な改修者  佐々木六角氏
 主な城主    佐々木六角氏
 廃城年      永禄11年(1568年)
 遺構        曲輪、土塁、石垣、竪堀、虎口、堀切、井戸
 指定文化財  国の史跡
 所在地      滋賀県近江八幡市安土町石寺
 
 
 久しぶりに名城です。
観音寺城は著名な安土城に隣接している為、存在感の薄さは否めませんが、長らく南近江の支配拠点として存在した城址です。
 
  正確な築城の記録は判っていませんが、近江源氏:佐々木氏の居城として鎌倉末期には築城されたものと思われます。
 
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城址に唯一残る建物の観音正寺 605年に聖徳太子が開いたという天台宗の古刹です
 
 
佐々木六角氏の概要
 この佐々木氏は宇多天皇を起源とする宇多源氏の一族で、古くから近江蒲生郡佐々木荘に住み、近江源氏、佐々木源氏などと呼ばれていました。
 源平合戦には源頼朝に与力して活躍し、地盤の近江守護を任じていましたが、信綱の頃に領地は4人の子に分割相続させた為、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏の4氏に分かれます。
 
  宗家として江南6郡を支配したのは六角氏で、鎌倉幕府の中枢で活躍し近江守護を継承して行きますが、後醍醐天皇を中心とした討幕の争乱(元弘乱)では幕府側についた為、建武の新政では守護の座を追われて、同族で庶流の京極道誉が守護についています。
 
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大河ドラマ『太平記』より 佐々木(京極)道誉 演:陣内孝則さん
『軍師官兵衛』の宇喜多直家と同じキャラでしたね(^^;
 
 南北朝の争乱に際しては一貫して幕府側で戦い、近江守護職を取戻しますが、京極氏も幕府に与して新たに飛騨、若狭、出雲、摂津、上総などの守護を任され、大原氏、高島氏も幕府直臣となった為、近江守護といっても江南6郡にしか下知できない名ばかりのものでした。
 
 それでも応仁の乱に西軍に付いた六角氏は、その後徐々に勢力を拡げ、内政を安定させて戦国大名へと名乗りを上げて行きます。
 定頼の代になると観音寺城を拠点に家臣団を整備して、伊勢や伊賀にも侵攻し、六角氏の最盛期を創出しました。
 
  しかし義賢(承貞)の代になるとその勢いにも陰りが出始めます。
美濃の斎藤氏、京の三好氏との戦いは苦戦を強いられ、下克上で京極氏に取って代わった浅井氏には野良田の戦いで敗戦を喫してしまいました。
  義賢は隠居して嫡男:義治が当主となりますが、義治は家中で人望を集めていた筆頭家老の後藤賢豊を妬みから殺害する暴挙に出て、六角家中は分裂状態となってしまいます。
 
  そんな大ピンチの折に尾張の新興大名:織田信長の侵攻を受けた六角義治は、観音寺城に籠って防戦の態勢を取りますが、集まる家臣団は数えるほどで、やむなく城を放棄して甲賀郡に退き、僅かにゲリラ抗戦をするのが精一杯でした。
   その後の六角氏は佐々木氏を名乗り、織田・豊臣家臣団に組み込まれて行き、薄録ながら“佐々木源氏”の家名を残したそうです。
 
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標高432mの繖山からは近江富士が良く見えます
 
 
観音寺城を歩く
 
 初登城ですが、その名と規模は予備知識として持っていたので、攻めどころを絞って特定しての訪城です。
標高443mの繖山観音寺山にあり、城の遺構の殆んどは八合目以上にある山城なので、麓から登山して広い城域を歩き回るのは無理ですから、まず唯一の現存施設観音正寺を目指します。
 
   ここには参詣者用の有料道路と観音正寺の南麓に駐車場があります。
しかし、目立つ看板もなく道路の入り口を見つけられずに、迷った挙句に登って行くと城址の東の端に着きました。
   百名城だから、それなりに予算も有る筈ですが、安土城に吸い取られて、こちらはお寺の施設に頼ってる感じがしますね。
ちなみに道路の料金は600円で、料金所で城址の見取図をくれました。
 
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 あらためて城址全体図を眺めてみます。
やっぱり難しい、この城。
繖山の東西に延びる尾根を外郭にして南斜面のみを活用し、この城の元になった観音正寺を中心に、無数の郭が密集する特異な形式の城で、登城路となる尾根筋には梯郭式に郭が積み上がっているのですが、伝本丸といわれる郭も西の端にあり、こうゆうの南向きひな壇住宅団地式山城とでも言うのでしょうか?
 
 城には被害を最小にしながら城を守り切るコンセプトがあると思いますが どんな戦い方を想定してたのでしょうね?
 
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PPAP?
 
ともかく車を止めて観音正寺参道から歩いて見ます。
 
   東の虎口のすぐに左下に広い郭が現れます。
これは伝目加田丸と呼ばれる郭で、 近江守護代まで務めた六角氏の重臣:目加田氏に宛がわれた郭と思われます。
   目加田氏は観音寺城至近の目加田山に城館を建てていましたが、これは後に織田信長に立ち退きを命ぜられ、その跡に建った信長の居城が安土城なのです。
 
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参道を見下ろす布施淡路丸の石垣
 
   少し進むと、右手の土手に登る坂道があります。
これを登って行くと伝布施淡路丸の郭があります。
布施淡路守も六角氏の重臣で、東の虎口を見下ろす大きな郭を任された所を見ると、信頼する家臣だった様ですね。
 
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石塁に囲われた郭内は300坪くらいの広さ
 
   この様に、観音寺城の郭には家臣の名前が付けられています。
に絵図に書かれていた名前が口伝されただけかも知れませんが、家臣の勢力単位で郭が形成された事が窺えます。
 
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虎口は石垣で強化されています
 
 
つづく