保々西城
 
 保々西城は朝倉家の本拠となる城で、茂福城を本拠としていた朝倉家が1450年頃に内陸に進出して築いた城です。
 
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蔵書(日本城郭大系)より 保々西城の図
 
 保々西城に迷わずに行くには、まず北勢中央公園を目指します。
四日市市の北の外れ、もう隣のいなべ市と境を接する朝明川北岸の河岸段丘上にあるこの公園は、広大な芝生広場を持ち、スポーツ施設も充実した県営の公園であり、道路や案内看板も整備されているので、簡単に辿り着けます。
 
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 この公園のほぼ西側、谷を隔ててある台地の先端の雑木林が保々西城です。
城址に行くには野球場を探します。
 
  照明塔を目印に野球場に着いたら、テニスコートとの間の駐車場にクルマを停めます。
 公園内に城址の案内は殆んど無いので、結論から言うと野球場のセンター後方のスコアボードの裏に、城址への入り口(搦め手口?)があります。
 
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野球場の傍にさりげなく有る城址入口 見つけにくい場所です…
 

 雑木林の中にまっすぐに入っていく地道(遊歩道)があって、両側の大量の笹に覆われた地面の形は判然としませんが、ほぼフラットな感じです。
 
 暫く進むと、低い土塁に区切られた喰い違い虎口が現れます。
案内図には此処からが城内みたいに書かれていますが、土塁の高さは1mほどしかなく、空堀も僅かなもので、二ノ丸と三ノ丸の境界と見るのが自然でしょう。
おそらく城の外郭は野球場の辺りにあったんではないかと推察します。
 
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写真中央を左右に土塁が走っていて、虎口になっています
 

 二ノ丸(勝手に決めてるが)内は家臣屋敷の跡の様で、ここも笹に覆われているものの、広大で人工的なフラット感があります。
家臣屋敷を城内に取り込んで、長期に籠城できる形式の城はこの地域ではスタンダードですからね。
 
 
 朝倉家が中流域に進出した頃の朝明郡は神宮領の多い地域であり、その管理は主に在地の豪族が担っていました、その支配権をめぐっては長野氏、北畠氏に加え美濃の斎藤氏も影響力の扶植を狙う草刈り場となっていました。
 
 こうした戦国大名に地侍では太刀打ちできる訳もなく、室町幕府の意思として朝倉家が神宮御厨の奉行を務める事になった様です。
 
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奥まった場所にやっと有った看板 入り口にも置いて欲しいものです
 

 最初は市場城を築いて本拠とした朝倉家ですが、近江六角氏が参入して来て、梅戸家や千種家を傘下に収めると、より強固な城が必要となり、新たに保々西城を築いて本拠にしたと考えられています
 
 朝倉家がこれらの勢力と交戦に及んだ記録はありません、永禄十年(1567)と翌十一年の織田信長の侵攻では保々西城に籠って滝川一益軍と激しく交戦した様です。
 いずれかの戦闘で落城したのは間違いありませんが、その後の織田諸将の家臣団の中に朝倉家の名前が出てこない事から、玉砕に近い形での落城だったものと思われます。
 
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行く手に突然現れる本丸北側虎口と空堀
 
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堀の規模も予想外の大きさです 織田軍を迎え討つ為に突貫工事で強化したのでしょうか?
 
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土橋と城門の跡 登り傾斜をつけてるあたり、良く考えられています
 

 更に奥に進んで行くと台地の先端にぶつかり、いよいよ本丸の郭が現れます。
郭内は50m四方ほどの広さと思われますが、周囲は高い土塁で守られ、7~8mはある深い空堀が口をあけています。
虎口は2ヶ所でいずれも土橋が掛かった枡形になっていて、新しさを感じます。
 
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南側虎口(大手?)はフラットですが、土塁で横矢が掛けてあります
 
 予想外の規模にも驚きますが、遺構の残存状態にもまたビックリです。
本丸もまた雑木と笹に覆われた一面の藪で、この状態から城の構造を見定めるには少しばかりの知識とたくましい想像力が要りますね。
 
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郭内は背丈ほどの笹藪で覆われ、何があるのか判りません
 

 これらの草木を刈り払ったら、凄い城址が現れるんではないでしょうか
しかしそれをしなかったから保存されてるとも言えるので、微妙ですね。
一度訪ねて損のない城址ですが、整備は殆んどされてないので、冬季の訪問がお奨めです。
 
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南側からの保々西城遠景 三方が泥田の攻めにくい城だった事でしょうね
 
おわり