日本百名城 №37 福井県 一乗谷城  登城日2015.08.08
 
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   城郭構造   山城+城郭都市
 築城主      朝倉氏
 築城年      南北朝時代
 主な改修者  桂田長俊
 主な城主    朝倉氏、桂田長俊
 廃城年      1575年(天正3年)
 遺構        土塁、堀、門
 指定文化財   遺跡(特別史跡)、庭園(特別名勝)、遺跡出土品(重要
文化財)
 所在地      福井県福井市城戸ノ内町
 
 
 続いて、朝倉氏の本拠地:一乗谷へとやって来ました。
一乗谷城としましたが、厳密な意味での一乗谷城は詰め城の事で、その麓の谷間には朝倉氏代々の居館と武家屋敷を中心とした城下町があり、周囲の山の尾根には防塁と砦群が張り巡らされた、要塞都市でした。
ここでの一乗谷城は、そうした朝倉氏の本拠地遺跡の総称とします。

 

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一乗谷城の位置を地形図で確認
福井平野の南東、低い丘陵の陰に隠れる谷間に城砦はあります。
どっかで観たロケーションだと思ったら、真田の内小屋の館もこんな場所でした。
 
 
越前朝倉氏考察
 金ヶ崎城でも触れましたが、朝倉氏には謎がたくさんあります。
畿内に至近の越前国は大国で、ここを統治する戦国大名:朝倉氏には幾度となくチャンスがありました。
 
 まずは系譜を見てみましょう。

 

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 朝倉氏は平安末期に但馬国朝倉に住んだ氏族が朝倉氏を称した事に始まると言われますが、南北朝時代に朝倉広景が足利方の斯波高経に属し越前で功を挙げ、坂井郡で斯波氏の目代となりました。
家系図ではこの広景を越前朝倉氏初代として扱っています。
 
 その後の朝倉氏は越前守護:斯波氏の被官として越前に根を張って行きますが、朝倉氏を一躍発展させたのが、7代:孝景(敏景)です。
越前国では折しも守護:斯波氏と守護代:甲斐氏の争いが激化しており、甲斐氏を積極支援した孝景は守護:斯波義敏の追い出しに成功し、国内で存在感を示します。

 

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一乗谷城立体模型(右が北になります)
九頭竜川の支流の足羽川のそのまた支流の細谷に集住していました。周囲の尾根に防塁を設け、谷は南北に土塁を築いて守っています。左下が詰め城の一乗谷城   小幡の国峯城もこんな感じでしたね。
 
 
 まもなく始まった応仁の乱では、西軍(山名氏側)に加担して京に乗り込み、東軍(幕府・細川氏側)の陣所を次々に陥落させる獅子奮迅の働きで、東軍諸将を震え上がらせます。
 孝景に手を焼いた幕府は寝返り工作を進め、長い交渉の後、孝景は越前国守護職を条件に東軍に寝返りました。
戦後に越前に戻った孝景は、正式な守護職として幕府の支援のもと、対立する甲斐氏などを掃討して行き、越前国を手に入れました。
 
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7代当主:朝倉孝景画像  とにかく、当時最強の武将だった様です。
 
 
 それまで、守護の一被官が幕命で守護職を拝命するなど思いも依らない事で、“誰でも戦に強ければ偉くなれる”という下克上の先鞭を作ってしまった…という事ですね。
 ともかく、朝倉氏は幕府を構成する氏族として、足利将軍との関係も緊密になり、地の利もあって、“幕府がまず頼りにする守護大名”という願ってもない位置付けを孝景一代で確立します。

 

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大手口にあたる“北ノ城戸”の土塁
門の所には大きな石が積まれているから、櫓門になっていたのでしょうね
 
 
 孝景の子孫の4代は、この遺産を少しずつ喰い潰して行く構図になるのですが、足利将軍の下向も実現した一乗谷には武人だけでなく、公家、僧侶、文人、歌人などが集まる様になり、人口は1万人を超えて“北の京”といわれるくらい賑わったそうです。
朝倉氏の全盛期ですね。

 こうした環境下で、孝景の後の氏景-貞景-孝景(宗淳)は国内の反乱や周辺の一向一揆に対処し、美濃の土岐氏や近江の浅井氏、若狭の武田氏なども支援して影響力を拡げて行きます。
 しかし、孝景(宗淳)と景高の兄弟による跡目争いや、一族の序列の争いは絶える事が無く、朝倉氏は決して一枚岩ではない脆さも包含していました。
 
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復元:武家屋敷街  この細谷に御殿、武家屋敷、寺院、商家、民家が密集していました
 
 
 7代:孝景の末子の教景(宗滴)は老齢ながら家中に重きをなし、若い当主の参謀として一族のまとめに奔走していました。
ただ、将軍に近く、文化人の来訪が絶えない中での公家的生活の蔓延は、静かに朝倉家を蝕んで行きます。

 

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復元:商家街
左から紺屋、米屋、炭屋…だったかな
 
後編につづく