東海の城探訪 三重県 桑名城 登城日2015.7.25

城郭構造 梯郭式平城
築城主 本多忠勝
築城年 慶長6年(1601年)
主な改修者 松平(久松)定勝
主な城主 本多氏、松平氏
廃城年 明治6年(1873年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 三重県史跡 城郭構造

城下町桑名の夏の風物詩『石取り祭』
春日神社の御神体として近郷の川から石を採取して奉った古事に由来する祭りなのですが、桑名城の最後の運命にも通じる気がします。
戦国時代、伊勢国の北部には『北勢四十八家』と呼ばれる、小豪族が割拠する奇妙な状態が続いており、桑名周辺も伊藤氏、矢部氏、樋口氏が分割支配していました。
天正2年(1574年)織田信長が侵攻して、この地は滝川一益の領地となりますが、一益は揖斐川を隔てた長島城を居城にしていました。
天正2年(1574年)織田信長が侵攻して、この地は滝川一益の領地となりますが、一益は揖斐川を隔てた長島城を居城にしていました。

安藤広重の東海道五十三次『桑名』
東海道は熱田の宮から海路(七里の渡し)になり、桑名に上陸します。
上陸地点は城の北辺にあたり、幡龍櫓が行き交う人々を見下ろしていました。
桑名城が造営されたのは関ヶ原の戦いが終わった慶長6年(1601年)の事で、徳川家康はこの地に上総大多喜から本多忠勝を移封させて、10万石を与えました。
忠勝は揖斐川西岸の東海道“七里の渡し”に隣接して広大な平城を築き、東海道の守りとしましたが、水利に困らないこの城は幾重にも広い水堀を巡らし、全て石垣で固められた郭上には51基の櫓と46基の多聞が立ち並んだそうです。
忠勝は揖斐川西岸の東海道“七里の渡し”に隣接して広大な平城を築き、東海道の守りとしましたが、水利に困らないこの城は幾重にも広い水堀を巡らし、全て石垣で固められた郭上には51基の櫓と46基の多聞が立ち並んだそうです。

桑名城縄張り図
水堀を幾重にも巡らした水城でした。
水の浸食を防ぐため総石垣で造られていました。
忠勝の子の忠政の代の元和3年(1617年)本多氏は播磨姫路藩15万石に移封となり、代わって家康の異父弟の松平定勝(久松)が入り、5代にわたって支配します。
しかし、2代目の定行は加藤嘉明の会津への転封を埋める形で伊予松山に移って、桑名は弟の定綱が継承しました。
しかし、2代目の定行は加藤嘉明の会津への転封を埋める形で伊予松山に移って、桑名は弟の定綱が継承しました。
5代目:定重のときの元禄14年(1701年)に桑名の過半を焼く大火があり、桑名城も天守を始め多くの建物を焼失し、後に再建されたのはごく僅かだったそうです。
定重の不運はさらに続き、家臣の不手際を重く処断した事が幕府の不興を買い越後高田に移封になってしまいます。
代わって入ったのは松平忠雅(奥平)で、この家は文政6年(1823年)に武蔵忍藩に移封となるまで7代110年を平穏に統治しています。
代わって入ったのは松平忠雅(奥平)で、この家は文政6年(1823年)に武蔵忍藩に移封となるまで7代110年を平穏に統治しています。

幕府は大名の領地を替える“転封”の権限を持っていました。
三つの大名が玉突きで替わる事を“三方領地替え”といい、久松松平家もこれで桑名に復帰します。
しかし内実は賄賂による幕閣への働きかけが強く作用し、この時はまず白河藩が佐倉藩への転封を希望し、佐倉藩は拒否した事から、旧領の桑名で…という事で落ち着いた様です。
忍藩の阿部氏が割を喰う形になり、佐倉藩の堀田氏も新たに“江戸湾海防”の役目を付加されてしまいます。
次に桑名に来たのは松平定永(久松)で、越後高田移封以来の念願の桑名復帰でした。
定永は陸奥白河からの移封であり、父であり先代の藩主は“寛政の改革”を主導した松平定信です。
念願の桑名に戻った久松松平家ですが、藩の財政は破綻しており、歴代藩主はその心労の為か若死にが多く、嗣子が絶えてしまいます。幕末最後の藩主:松平定敬は美濃高須藩からの養子でした。
“高須四兄弟”のひとりで、会津藩に入った松平容保の実弟ですね。
定敬は“京都所司代”を勤め、“京都守護職”となった兄と共に積極的に幕府を
支えて行きますが、時代の流れを戻す事はできず、いつしか“朝敵”にされてしまい、鳥羽伏見の戦いの後に江戸に戻った間隙を衝いて薩長軍に包囲された桑名城は降伏開城しました。
定永は陸奥白河からの移封であり、父であり先代の藩主は“寛政の改革”を主導した松平定信です。
念願の桑名に戻った久松松平家ですが、藩の財政は破綻しており、歴代藩主はその心労の為か若死にが多く、嗣子が絶えてしまいます。幕末最後の藩主:松平定敬は美濃高須藩からの養子でした。
“高須四兄弟”のひとりで、会津藩に入った松平容保の実弟ですね。
定敬は“京都所司代”を勤め、“京都守護職”となった兄と共に積極的に幕府を
支えて行きますが、時代の流れを戻す事はできず、いつしか“朝敵”にされてしまい、鳥羽伏見の戦いの後に江戸に戻った間隙を衝いて薩長軍に包囲された桑名城は降伏開城しました。

三之丸堀端の景観
かつての高石垣の防塁はなく、忠勝が築いた堅城の面影は残っていません。
明治6年には正式に廃城となりましたが、幕府側主力だった桑名藩への明治新政府の対応は殊の外厳しく、桑名城の建物はすぐさま撤去されたのに続き、石垣の石材も大半が『四日市港建設資材』として取られてしまい、城としての景観は大きく失われてしまいます。
しかし是を良しとしない地元の人達の尽力で、松平定信没後100年にあたる昭和3年(1928年)に旧本丸・二之丸一帯を再整備して九華公園としました。
三重県も城址を県の史跡に指定し、少しずつではありますが、面影を見られる様になって来ています。

現在も城址を見守る本多忠勝像
徳川きっての勇将は人望も高く、築城には井伊直政をはじめ多くの譜代・旗本が手伝いに掛け付けたそうです。
後ろの棒は“蜻蛉斬り”
後編へつづく