東海の城探訪 静岡県 天方城 登城日2015.05.31

城郭構造 輪郭式山城
天守構造 なし
築城主 天方通興
築城年 永禄年間(1560年頃)
主な城主 天方通興
廃城年 1600年頃?
遺構 土塁、堀、郭
指定文化財 なし
所在地 静岡県周智郡森町向天方
天守構造 なし
築城主 天方通興
築城年 永禄年間(1560年頃)
主な城主 天方通興
廃城年 1600年頃?
遺構 土塁、堀、郭
指定文化財 なし
所在地 静岡県周智郡森町向天方
天方(あまがた)城は遠州中部、太田川中流域の森町向天方にある山城です。
土地の国人領主:天方氏の居城ですが、天方氏は藤原秀郷の後裔といわれ、平安時代からこの地を領していて、首藤氏と称して、有力な鎌倉御家人でした。
鎌倉幕府が滅んだ際に、当主の首藤道隆が北条高時に殉じた為、以後一族は地名の天方氏を名乗ったそうです。
本拠とした天方城はもともと少し北にあった(天方本城)様ですが、戦国時代になって、より強固な城が必要となり、現在の地に新城を築きました(天方新城)。
土地の国人領主:天方氏の居城ですが、天方氏は藤原秀郷の後裔といわれ、平安時代からこの地を領していて、首藤氏と称して、有力な鎌倉御家人でした。
鎌倉幕府が滅んだ際に、当主の首藤道隆が北条高時に殉じた為、以後一族は地名の天方氏を名乗ったそうです。
本拠とした天方城はもともと少し北にあった(天方本城)様ですが、戦国時代になって、より強固な城が必要となり、現在の地に新城を築きました(天方新城)。

二ノ曲輪下にある明るく広い駐車場 残念ながら、曲輪の一部と虎口が破壊されています
当時は今川の武将だった天方通興ですが、義元が桶狭間に斃れると今川氏の斜陽が始まり、今川領は武田、徳川の草刈り場となってしまいます。
天方城は地勢的にまず浜松に入った徳川の侵攻に晒されますが、今川の雄将として知られた通興には今川の人質だった家康に従う気などさらさら無く、あからさまに敵対します。
永禄12年 (1569年)、榊原康政、大久保忠隣などに攻められてやむなく降伏し、徳川傘下に入ります。
翌、元亀元年 (1570年)、武田の誘降に乗って徳川に反旗を翻した通興でしたが、榊原康政、大須賀康高に攻められてまたまた降伏し、徳川傘下に戻りました。

縄張り図 山頂にほぼ単郭で造られており、明らかに詰め城ですね
そして元亀3年 (1572年) 10月、今度は武田信玄自らが大軍を率いて押し寄せて来ます。
そう多くはない徳川勢に二度も落とされた経験からか、通興は一戦も交える事なく浜松へと逃げ去り、無血で確保したこの城に信玄は久野弾正忠宗を城将として置きました。
野田城を占拠した後に武田勢が甲斐に撤収すると、家康は占領された周辺の城の奪還戦を始め、天方城にも元亀4年 (1573年) 3月に大久保忠隣、渡辺半蔵らを派遣して城兵との間で激しい戦闘が繰り返されます。
やがて兵糧が尽きた久野忠宗は夜陰に紛れて城を去り、天方城は徳川の手に戻ります。
*天方通興を城主で戻したかは不明。

だいぶ埋まってはいますが本曲輪の土塁と堀は立派です。
石を積み掛けた痕もあり、城主が替わる度に何らかの強化を試みたんでしょうね
翌天正元年、今度は武田勝頼が攻め、再々度奪還しますが、天正2年には家康自らが乗り出して来て城を攻略し、犬居城攻めの拠点とします。
この時の犬居城攻めでは、折からの気田川の氾濫で隙を作った徳川勢は犬居城主:天野景貫の急襲に遭って総崩れになり、散々に追いまくられた挙句、天方城まで逃げ帰ったそうです。
*この時は空腹ではなかった様ですねw
この時の犬居城攻めでは、折からの気田川の氾濫で隙を作った徳川勢は犬居城主:天野景貫の急襲に遭って総崩れになり、散々に追いまくられた挙句、天方城まで逃げ帰ったそうです。
*この時は空腹ではなかった様ですねw

説明書き看板も虚飾も無く、しっかりしています
この後、天方城主に返り咲いた通興ですが、嫡子の通綱が『信康事件』で高野山に登り仏門に入った事から跡継ぎが無く、通興の死をもって天方城も廃城になりました。
天方城を歩く
『遠州森』といえば『森の石松』を連想される先輩方も多いと思いますが、森町は“静岡茶”の代表的な産地で、太田川沿いに県道を北上して行くと、緩やかな山並みの稜線は一面に茶畑が広がります。
『遠州森』といえば『森の石松』を連想される先輩方も多いと思いますが、森町は“静岡茶”の代表的な産地で、太田川沿いに県道を北上して行くと、緩やかな山並みの稜線は一面に茶畑が広がります。
天方城址は森市街の北東2kmの山上にあり、『城ヶ平公園』として整備・保存されていて、そこを目指して走ります。
周辺の山々の中ではひときは峻嶮な山容なので、すぐにそれと判りますが、そんな山でも8合目あたりまでは茶畑に覆われています。
周辺の山々の中ではひときは峻嶮な山容なので、すぐにそれと判りますが、そんな山でも8合目あたりまでは茶畑に覆われています。
時期的に二番茶の刈取り風景を見ながら、農道兼の登城路をクルマでグイグイ登って行き、頂上が見える頃、広い駐車場に着きました。
先客は居ないか…と思ったら、スポーツ自転車が1台停まっていましたw

本曲輪の虎口 土橋でつながります
ここも犬居城と同様に、郭や防塁は山上だけにある、いわゆる詰め城です。
ただ、城の形式は異なり、頂上を削平して本曲輪を造り、その周囲を空堀を穿って防御しています。
その外側は帯曲輪がグルリ巻いていて、帯曲輪の西から北にかけては少し傾斜が緩い為に空堀が掘ってある、輪郭式の曲輪構成ですね。
その外側は帯曲輪がグルリ巻いていて、帯曲輪の西から北にかけては少し傾斜が緩い為に空堀が掘ってある、輪郭式の曲輪構成ですね。
本曲輪は多少傾斜はあるものの、かなりの広さがあり、千名規模でも籠城が出来そうです。 問題は水…かな。

曲輪内は千坪は優に超える広さ 松の大木が目立ちます
曲輪内には樹齢百年はありそうな立派な老松がたくさん植えられています。
江戸時代に使われた城ならともかく、明治時代にもう公園整備されてたのかな?…と、不自然さを感じながら南側に造られている展望台に登って見たら、すべての疑問が解決しましたw
江戸時代に使われた城ならともかく、明治時代にもう公園整備されてたのかな?…と、不自然さを感じながら南側に造られている展望台に登って見たら、すべての疑問が解決しましたw

曲輪の南側に造られた展望台
明治維新で貿易が解禁されると、日本の茶の需要は一気に爆発して、温暖で山がちな茶栽培に適した静岡では、主要産品として茶畑の開墾が盛んに行われます。
それはこの天方城址のように山頂間際にまで達し、開墾・栽培の作業に従事した人達は、お昼には城址まで登って、下に広がる故郷:森町と自分達の汗の結晶の壮大な茶畑の景色を見ながらお弁当を食べたんでしょうね。
それはこの天方城址のように山頂間際にまで達し、開墾・栽培の作業に従事した人達は、お昼には城址まで登って、下に広がる故郷:森町と自分達の汗の結晶の壮大な茶畑の景色を見ながらお弁当を食べたんでしょうね。

展望台からの景色は絶景です
少しガスってたけど、浜松駅前の“アクトシティ”が視認できました
山頂までの農道の存在は、そうした機会を農夫だけでなく一般の人々にまで広げ、いつしか天方城址は森町の人にとって“とても大切な場所”として公園化されたんでしょうね。
天方通興さんはさぞ満足してる事でしょうw
