東海の城探訪 静岡県 犬居城 登城日2015.05.31

城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 天野氏
築城年 室町初期?
主な城主 天野氏、徳川氏
廃城年 天正年間(1590年頃? )
遺構 土塁、堀、郭、物見台跡
指定文化財 静岡県指定遺跡
所在地 静岡県浜松市天竜区春野町堀ノ内
天守構造 なし
築城主 天野氏
築城年 室町初期?
主な城主 天野氏、徳川氏
廃城年 天正年間(1590年頃? )
遺構 土塁、堀、郭、物見台跡
指定文化財 静岡県指定遺跡
所在地 静岡県浜松市天竜区春野町堀ノ内
犬居城は静岡県浜松市の北部、天竜川の支流“気田川”沿いの盆地にあります。
山が嶮しくV字谷を形成する天竜川に比べ、気田川流域は山稜も緩やかで、所々にまとまった平地がある為、古くから人の営みが生まれた北遠の中心地でした。
山が嶮しくV字谷を形成する天竜川に比べ、気田川流域は山稜も緩やかで、所々にまとまった平地がある為、古くから人の営みが生まれた北遠の中心地でした。
犬居城の築城は天野氏によるとされています。
伊豆国天野郷の国人だった天野氏とこの地の関わりは鎌倉時代初期に遡り、承久の乱の働きで、山香荘地頭職を得て初めて入部しました。
その後も天野氏は繁栄し、氏族を周辺に根付かせて、北遠一の国人領主となります。

天竜川の支流“気田川”は水量の割りに広い河原を持っています。
戦国時代になると駿府の今川氏に従う有力家臣でしたが、今川義元が桶狭間に斃れると、時の惣領:天野景貫は離反して松平元康(徳川家康)に従います。
そして元亀3年の武田信玄の侵攻を迎える訳ですが、深く思案した景貫は武田への乗り換えを決め、すぐに青崩峠に信玄を出迎えに行き、自ら案内して居城の犬居城に迎えます。
そして元亀3年の武田信玄の侵攻を迎える訳ですが、深く思案した景貫は武田への乗り換えを決め、すぐに青崩峠に信玄を出迎えに行き、自ら案内して居城の犬居城に迎えます。
その後は自ら案内を務めて徳川との戦いを転戦し、連戦連勝で景貫の選択は大成功だったかに見えましたが、三方が原の戦の後、信玄が病に伏せ、野田城を攻略直後に府中に撤収してしまいます。
残された景貫ら寝返った遠江の国人達は、今度は家康の反撃に晒される事になります。

本曲輪にある案内板
天正2年(1574年)には犬居城にも徳川勢が押し寄せます。
多くの国人が降伏する中、景貫の武田家臣従の意志に変わりは無く、籠城して戦います。
*信玄の死後、その遺言で総動員の出陣は出来なかったものの、東遠江では勝頼の指揮で高天神城を落とすなど、武田優位の構図に変わりは無かった。
多くの国人が降伏する中、景貫の武田家臣従の意志に変わりは無く、籠城して戦います。
*信玄の死後、その遺言で総動員の出陣は出来なかったものの、東遠江では勝頼の指揮で高天神城を落とすなど、武田優位の構図に変わりは無かった。
この時点ではまだ徳川のダメージも回復途上だった為か、徳川勢の隙を見て逆襲し、防ぎ切りますが、天正4年に再び攻め込まれると、さすがに防ぎ切れず、景貫以下一族は武田勝頼を頼って甲斐へと落ち延びました。
天野氏の武田配下での動きは判りませんが、武田氏滅亡後は北条氏を頼り、北条氏照の配下で北関東の戦線で活躍しています。
天野氏の去った犬居城は徳川氏の管理で残っていた様ですが、天正18年(1590年)に徳川氏が関東に移封になると廃城になりました。
犬居城を歩く
浜松からR152で北上し天竜川を渡ると二俣(旧浜北市)に入ります。
二俣市街を抜け、分岐で右手のR362に入り、ひたすら北上すると旧春野町の犬居に到着します。
目印は『春野ふれあい会館』という施設で、そこに入る信号を逆の右側に入ると春野の集落になります。
集落の中ほどに『犬居城址』の看板があるので左折で入り、国道の高架橋を渡ってどんどん登って行くと、左手に登城口が見えてきます。
浜松からR152で北上し天竜川を渡ると二俣(旧浜北市)に入ります。
二俣市街を抜け、分岐で右手のR362に入り、ひたすら北上すると旧春野町の犬居に到着します。
目印は『春野ふれあい会館』という施設で、そこに入る信号を逆の右側に入ると春野の集落になります。
集落の中ほどに『犬居城址』の看板があるので左折で入り、国道の高架橋を渡ってどんどん登って行くと、左手に登城口が見えてきます。

登城口と登城路 竹の杖が置いてくれてあります
クルマは2~3台は停められますが、たぶん貸切りですよw
登城路の広い歩道も整備されてるので、登って行きます。
登城路の広い歩道も整備されてるので、登って行きます。

登城路は、この手の城らしからぬ広さ
この城、郭は150m上の山上にしか無い様で、中腹は急斜面が続くのみです。

最初に現れる虎口

空堀を持つ土塁

本曲輪は南に広い土塁が巻いています

物見曲輪には展望台が造ってあります

城の西端は大堀切で尾根を断ち切っています
山上に水の手は無く、典型的な詰め城の様です。
辺鄙な山間の立地だから、麓に居館を持って、平時はそちらに居たのでしょうね。
辺鄙な山間の立地だから、麓に居館を持って、平時はそちらに居たのでしょうね。
