東海の城探訪 三重県 伊勢上野城 登城日2015.05.16

城郭構造 平山城
天守構造 詳細不明
築城主 織田信包
築城年 元亀元年(1570年)
主な城主 織田信包、分部光嘉
廃城年 元和5年(1619年 )
遺構 土塁、郭、物見台跡
指定文化財 なし
所在地 三重県津市河芸町上野
天守構造 詳細不明
築城主 織田信包
築城年 元亀元年(1570年)
主な城主 織田信包、分部光嘉
廃城年 元和5年(1619年 )
遺構 土塁、郭、物見台跡
指定文化財 なし
所在地 三重県津市河芸町上野
安濃津城とセットで訪れた伊勢上野城、伊賀 ではなく 伊勢 の上野城です。
安濃津城との繫がりは高虎ではなく、織田信包。
GO! GO! GO!…とまた訳のわからないタイトル付けたのは、実は…
コレなんです!

江ちゃん 懐かしいですねw
織田信包は永禄11年(1568年)、兄:信長の命で伊勢の長野氏に養子として送り込まれ安濃津城に入ります。
しかし、安濃津城はまだ粗末な小城であった為、すぐに大々的な改修を始め、自身は10kmほど北の高台に家臣の分部光嘉に命じて仮住まいの新城を築造させて住みました。
それが伊勢上野城なのです。
天正元年(1573年)、そこにやって来たのが信包と母を同じくする実妹で、浅井家に嫁いでいた於市の方で、幼い三姉妹の娘達も一緒でした。
まだ0歳だったGOちゃんは、安濃津城が完成して移るまでの4~5年間をここで過ごしたと言われています。

大河ドラマ放映中はたいそう賑わった様です
信包達が去った伊勢上野城は築城した分部光嘉が城代として残り、管理しますが、豊臣政権下では1万石の大名として独立します。
関ヶ原の戦では東軍に付き、共闘していた富田信高の安濃津城に入って共に戦い、毛利勢相手に奮戦しますが、力及ばず開城し蟄居します。
戦後、その功で2万石に加増されますが、その時の怪我が癒えず、翌年死亡しました。
家督は養子の光信が継ぎ、元和5年(1619年 )、光信は近江大溝藩に移封とされて伊勢上野城は廃城となりました。

縄張り図 戦国色の強い配置です
伊勢上野城を歩く
前日からの雨がまだ残る中、クルマで訪れました。
だいたいの場所の見当はついてたのですが、城址の現在の名称『本城山青少年公園』へ入る道が見つからず、かなり苦労して駐車場に辿り着きましたw
『戦国の姫たち・江』…だったかな? が放映中の頃は日に何百人も訪れたそうです。
今日は絶対に“貸切り”の予感でしたが、名古屋ナンバーの先客が1台居ましたw
ともかく、歩いて観て廻ります。

広い駐車場に2台だけ。貸切りは免れましたw

駐車場の横はもう本丸土塁

本丸内は50m四方はあります

周囲は低い土塁で囲まれています

二ノ丸も結構な広さがあります

二ノ丸から観る伊勢湾の展望 あいにくの天気で遠くは見えませんでした
東向きの展望台に立って海の方向を眺めながら、信包が見てた景色を妄想していると、背後から『今日はよく見えませんね』という声がします
。
振り返ると品の良さげな老紳士が立っていました。
『ええ、晴れてたら綺麗な風景でしょうね』と返すと、
『冬の晴れた日には、知多や渥美半島までクッキリ見えるんですよ…』と、遠い眼をされています。
『この城はどうですか?』と問われたので、
『思ってたよりキチンと造られてるのでビックリです』と答えると、無言で満足そうな笑みを浮かべられました。
二言三言会話して別れましたが、本丸土塁の下の道を山中に消えて行く老人が何か気になって、後を追ってみたのですが、もう姿は見えませんでした。
急ぎ駐車場に戻って見ても、名古屋ナンバーは影も形もありません…。
あの人はきっと織田信包公だったんだな、うん。

海側から見た城址の遠望