東海の城探訪 三重県 安濃津城 登城日2015.05.16

城郭構造 輪郭式平城
天守構造 天守台のみ(織田期は五重天守あり)
築城主 細野藤敦
築城年 1560年頃
主な改修者 織田信包、藤堂高虎
主な城主 細野氏、織田氏、富田氏、藤堂氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、水堀、移築門
指定文化財 三重県史跡
所在地 三重県津市丸之内
天守構造 天守台のみ(織田期は五重天守あり)
築城主 細野藤敦
築城年 1560年頃
主な改修者 織田信包、藤堂高虎
主な城主 細野氏、織田氏、富田氏、藤堂氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、水堀、移築門
指定文化財 三重県史跡
所在地 三重県津市丸之内
前回、伊賀上野城を訪れたので、藤堂高虎の流れで安濃津城を訪ねました。
築城の名手:藤堂高虎は、その生涯に18の城を築いた…と言われています。
しかし、27歳での“出石城”を皮切りに、3城目(30歳)では“聚楽第”の縄張りを任されていますから、もっと以前により多くの築城を経験している…と見るのが妥当ではないでしょうか?
築城の名手:藤堂高虎は、その生涯に18の城を築いた…と言われています。
しかし、27歳での“出石城”を皮切りに、3城目(30歳)では“聚楽第”の縄張りを任されていますから、もっと以前により多くの築城を経験している…と見るのが妥当ではないでしょうか?
ともかく、18城のうち殆どが“伊賀上野城の様に”徳川家康の命による“天下普請”のプロデュースであり、自分の為の築城は僅かに4城に留まります。
1587年 紀伊 粉河城(猿岡山城)
1589年 紀伊 赤木城
1596年 伊予 宇和島城
そして、1608年 伊勢 安濃津城です。
今年の2月に訪れた“赤木城”を見た時、前線の城とはいえ聚楽第の3年後の作品とは思えない粗い造りに正直驚いたのですが、その19年後、円熟期の『自分の為の城』はどんなものか…。
そんな観点で歩いて見ます。
そんな観点で歩いて見ます。

“お城公園”として、今風の公園になって残っている安濃津城本丸
安濃津城の起こりは更に50年ほど遡り、永禄年間(1560年頃)この地を支配していた長野氏の一族:細野藤敦が小規模な城塞を構えたのが最初とされます。
1568年、織田信長が伊勢に侵攻すると長野氏は山間部に追いやられ、織田一族の津田一安が入城しますが、翌年に長野氏への信長の弟:信包の養子押し込みが成ると、安濃津城には織田信包が替わって入城します。
信包は城郭を“石の城”に大きく変貌させ五層天守と三層小天守の連立天守を造営します。
1573年、小谷城の落城で救出された妹のお市の方と三人の娘達は、信長の命により、信包に庇護されて、安濃津城で暮らしていた…とも言われています。
1568年、織田信長が伊勢に侵攻すると長野氏は山間部に追いやられ、織田一族の津田一安が入城しますが、翌年に長野氏への信長の弟:信包の養子押し込みが成ると、安濃津城には織田信包が替わって入城します。
信包は城郭を“石の城”に大きく変貌させ五層天守と三層小天守の連立天守を造営します。
1573年、小谷城の落城で救出された妹のお市の方と三人の娘達は、信長の命により、信包に庇護されて、安濃津城で暮らしていた…とも言われています。

信包時代のものと言われる天守台
大小の連立天守の形式ですが、富田氏の代にも三層の天守が有った様で、どちらのモノか?
五層天守を載せるには小さい気もしますが…。
秀吉の時代になると信包は丹波に移され、替わって秀吉の臣:富田一白が入って来ます。
一白の子:信高は“関ケ原の戦い”では東軍に付きますが、伊勢に侵攻した西軍の毛利・長宗我部軍3万に攻められ、城の建物の大半を焼失する苦戦の末、やむなく開城降伏しました。
一白の子:信高は“関ケ原の戦い”では東軍に付きますが、伊勢に侵攻した西軍の毛利・長宗我部軍3万に攻められ、城の建物の大半を焼失する苦戦の末、やむなく開城降伏しました。
“関ケ原の戦い”の結果、信高は2万石を加増され8万石で安濃津に留まりますが、1608年に伊予宇和島に転封となり、替わって藤堂高虎が22万石でやって来ます。

高虎の安濃津城下図
2本の川を総構えに、3重の堀で囲んだ輪郭式の縄張りです。
西(上)の伊賀方面が貧弱に見えますが、当時は湿田が広がっていました。
高虎は安濃津城を広大な水堀を持つ輪郭式の大城郭に改変します。
17基の櫓を持つ総石垣の壮大なものでしたが、天守台に関しては富田氏の代のものをそのまま残した様で、後の“大坂冬の陣、夏の陣”への貢献で10万石を加増され、32万石の文字通り“太守”となっても豪壮な天守へのこだわりは持たず、城下町の整備にのみ費やした様です。
17基の櫓を持つ総石垣の壮大なものでしたが、天守台に関しては富田氏の代のものをそのまま残した様で、後の“大坂冬の陣、夏の陣”への貢献で10万石を加増され、32万石の文字通り“太守”となっても豪壮な天守へのこだわりは持たず、城下町の整備にのみ費やした様です。
こうした外様ながらも徹底した“徳川家臣化”の方針は幕府からも高い信頼を得て、江戸期を通して“国替え”の憂き目を見る事なく、明治維新まで“譜代待遇”を受けていたそうです。

本丸石垣と僅かに現存する水堀
紛れもなく高虎の石垣ですが、堀幅はだいぶ狭くなっている様です
その維新ですが。
“鳥羽伏見の戦い”においては、藤堂藩は幕府軍の先鋒として山崎高浜砲台に陣取り、淀川を遡上して来る薩長軍を待ち構えていましたが、突如として裏切って、対岸の幕府軍砲台を攻撃します…。
戦国末期の生き残りを賭けた高虎の“処世術”はともかく、270年の泰平の世で“武士道の進化を経た佐幕派諸藩からは、『やはり藤堂の裏切り者の血は守られていた!!』と誹りを受けたそうです。
“鳥羽伏見の戦い”においては、藤堂藩は幕府軍の先鋒として山崎高浜砲台に陣取り、淀川を遡上して来る薩長軍を待ち構えていましたが、突如として裏切って、対岸の幕府軍砲台を攻撃します…。
戦国末期の生き残りを賭けた高虎の“処世術”はともかく、270年の泰平の世で“武士道の進化を経た佐幕派諸藩からは、『やはり藤堂の裏切り者の血は守られていた!!』と誹りを受けたそうです。
一般に藤堂高虎の評価がイマイチなのは、江戸時代から同じなんですね。

本丸跡に建つ高虎の騎馬像
仙台の政宗像くらい立派です
《後編》へとつづく…