松坂城の最後です。

 

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蒲生氏郷の記憶  野面積みの松坂城天守台
 
 
 伊勢松坂領の経営が軌道に乗りはじめた1590年(天正18年)、豊臣秀吉の意に従わない関東北条氏を攻める“小田原征伐”の大号令が発せられます。
氏郷も4千の兵を率いて参陣し、総勢21万の大軍で攻囲4ヶ月、北条氏は降伏します。
 
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小田原城攻囲戦 御鐘ノ台より蒲生氏郷陣所を見る
北条勢唯一の攻撃は太田氏房による蒲生陣への夜襲でした。
甲冑を脱いでいた氏郷は家臣の鎧を借りると自ら槍を取って敵の背後に回り込み、すぐに撃退しました。
 
 
 北条氏は領地没収・滅亡となり、その領地は徳川家康に与えられますが、その脚で行われた“奥州仕置” でも伊達政宗などの減俸や改易が行なわれました。
 
 秀吉は潜在的な脅威の家康の背後を脅かし、政宗の南下を阻止する役割で会津に大きな領地を確保して、信頼できる大名の配置を画策します。
 最初に指名された細川忠興は、『その様な大任は無理です!』と断りますが、次に打診された氏郷は、ある条件を示して認められると、これを受けました。
その条件とは…これまでの戦乱で敗者となり、仕官差し止めになって浪人蟄居している有能な武士達の大量採用で、“家は人なり”を実践した訳です。
*この中には武田二十四将のひとり曽根昌世、真田昌幸の弟の真田信伊、“のぼうの城” の成田一族などがいました。
 
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会津若松城天守と天守台
新たな松坂=若松と改名した城と城下町です。
氏郷の創建時の“野面積み”天守台がそのまま使われています。
天守は五層七階の大きさでしたが、加藤嘉明の時に縮小されました。
 
 当初は42万石といわれた石高も、更に加増されて92万石にまでなります。
かつて岐阜城中で幼い頃の氏郷を見た稲葉一鉄が『この子は必ずや100万石の太守になる!』と言い切った言葉は現実のものとなりました。
 
 秀吉は氏郷の才能を怖れて、会津に追いやった…という説もあります。
しかし、そういう者なら官兵衛の様に“少禄で身近に置いて監視した”筈です。
 氏郷の資質と当時の環境から見ても、かの地には家康~政宗ラインを分断しうる秀吉側の有力な大名が必要であり、後に上杉景勝を入れた事を見ても、秀吉は相当に氏郷を頼りにしていたのだと思います。
 不治の病に伏せた氏郷をわざわざ伏見に呼び寄せ、全国から名医を集めて看させたのも他ならぬ秀吉自らの最後の抗いでした。
そうした事も実らず、文禄4年(1595年)氏郷は伏見屋敷で生涯を終えます。まだ40歳の若さでした。

 辞世 『限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風』
 

 

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会津若松城二ノ丸から見上げる本丸土塁
“蒲生氏郷”の匂いを強く感じた瞬間です。
 
 
 その後の蒲生氏は嫡男:秀行が跡を継ぎます。
父が氏郷、母は信長の娘、妻に家康の娘をもつ貴公子も若年ゆえ大きな役目を果たす器量はまだなく、宇都宮18万石に減転封されます。
“関ヶ原” 後に徳川の天下になると、一旦会津60万石で復帰しますが、秀行も30歳の若さで早死にし、跡を継いだ忠郷はまだ10歳の若さゆえ家中は混乱します。
 忠郷も26歳で嗣子なく病死したため、改易になる所でしたが、母が家康の娘だったので弟の忠知(出羽:上山藩4万石)が相続を許され、伊予松山24万石に減転封で家を残します。
その忠知もまた嗣子なく31歳の若さで病死し、遂に名門蒲生氏は断絶してしまいました。
 
 
おしまい。