松坂城の続きです。
 
松坂城を歩く
 
 松坂城址は市街の中心部、松阪駅の西1km弱にあり“松阪公園”になっています。
駅と城址の間には旧伊勢街道(氏郷が城下を通した)があり、古い町並みを散策できるので、遠くの方は電車でのアプローチの方が便利ですね。
今回は近場でもあり車で来たので、城址正面の市役所駐車場に停めます。
市役所の前が大手門だった様で、もう目の前に石垣が見えています。

 

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市役所前  前方の森が城址です
 
 去年の春の秋田久保田城以来、本当に久しぶりの100名城です。
 
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現存城址の案内図
江戸時代に大名の居城ではなかった(紀州藩の支城)から、知名度は低いのですが、これは本格的な城です
 
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表門の枡形
門に向けて傾斜があるので、丸太で打ち破る“アレ”ができない
 
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二ノ丸高石垣
 
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本丸“月見櫓”の石垣
見事な加工と美しい曲線です
 
 
 氏郷の流れでの訪城だから、“野面積み”の高石垣を期待していましたが、普通に“江戸時代の石垣”という風情が強いです…。
 蒲生氏郷の後には服部一忠、5年後には古田重勝が入り、14年後には紀州藩の支城として城代が在城し、明治まで存続した松阪城。
その長い歴史の中では修理・改築があったと思われますが、服部、古田は大身ではなく、大きく縄張りを改変する力は無かったでしょう。
 
 そうなると、改変された部分はほぼ紀州徳川家に依るもので、江戸期の幕政が安定した以降のものと思われます。
 石垣を見れば一目瞭然で、“切り込み接ぎ”の部分が徳川家の修理の跡です。
修理と限定したのは、徳川幕府の泰平の世に藩の城、ましてや支城を大改造する名目が無く、幕府の許可も下りず、財政的な余力も無かったと思われるからです。
傷んだ部分を“原状復帰”の範囲で修理し、その際には最新技術を使った…という事ですね。
 
 そうだとすれば、現存の遺構は修理箇所を除き縄張りも、構造も、石垣の高さも殆ど全て氏郷の企図した城が残っているという事です。

 

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本丸高石垣には 蒲生の匂いが残ります
 
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早くに天守を無くした天守台は野面積みのまま残りました
 
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郭は多門櫓が多用され、高石垣と相まって、高い防御力を誇ります
 
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大手口、搦め手口ともに広めな通路幅
 
 
 築城術と攻城術は楯と鉾の関係です。 
互いが終わりなき技術革新の連続であり、すなわち攻城に長けた武将ほど築城にも長けている…という事ですね。
 
 松坂城の大きな特徴としては、広めの曲輪が強固な高石垣に守られています。
虎口は大きく大手と搦め手のみの二ヶ所で、石段の通路幅はかなり広く取ってあります。
これは何を意味するかと言えば、戦闘が起きる箇所を虎口に絞り、この際には城内の兵が一気に討って出られる…という狙いかと思います。
 
 よく似た城に森忠政の津山城がありますが、白兵戦に絶対の自信を持つ武将ならではの構造がここに見て取れますね。
まさに“氏郷渾身の城”と言えるでしょう。

 

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建材に使われた“石棺の蓋”  突貫工事でした
 
 
後篇へとつづく