日本百名城  №48  三重県 松坂城  登城日 2015.04.18
 
イメージ 1
 
 
  城郭構造       梯郭式平山城
  天守構造       連結式3重5階
  築城主          蒲生氏郷
  築城年          1588年(天正16年)
  主な改修者    古田重勝
  主な城主       蒲生氏郷、服部一忠、古田重勝、紀州徳川家
  廃城年          1871年(明治4年)
  遺構             天守台、本丸、二の丸、石垣等多数残る
  指定文化財    国の史跡
 
 
 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦が終わると蒲生氏郷は近江日野6万石から伊勢松ヶ島12万石に加増転封になります。
日野は豊臣秀次(近江八幡42万石)の領地となり、日野城には家老の田中政吉が入りました。 氏郷28歳の時です。
 
 南伊勢の地はもともと伊勢守護職:北畠氏の領地で、これを攻めた織田信長は神戸氏と同様に二男の信雄を養子に送り込んで乗っ取ります。
 
 “清須会議”の後、信雄は清洲城を居城としたため、松ヶ島城には付家老の滝川勝利が居ましたが、信雄が徳川家康と組んで豊臣秀吉に対抗した“小牧・長久手の戦”では氏郷は南伊勢の戦線に奔走し、松ヶ島等の諸城をいち早く平定して小牧の本戦に加わっています。
この戦功から石高倍増で松ヶ島が与えられました。

 

イメージ 2
現在は跡形も無い松ヶ島城址
田園の中に僅かに天守台の土壇だけが残り、名残りをとどめています。
 
 この頃の氏郷の戦い方を伝える逸話があります。
秀吉と麾下の武将間の会話の中で『もし氏郷が10万の兵と織田信長が5千の兵を率いて戦ったらどうなるか?』という空想の話ですが、衆目の一致する所は信長の圧勝でした。
 
 なぜなら、『信長様なら4千の兵を失っても何とか逃げ延びている』 のに対し『蒲生軍は最初に5人の兵を討ち取ったら、その中に必ず氏郷が居る…』というものです。
 
 オーバーな表現ですが、松ヶ島城の攻城戦でも氏郷の兜には3発もの弾痕があったそうです。『将が真っ先に安全を証明するから家来がついて来るのだ』…と、自ら軍の先頭に立った氏郷の戦いっぷりが伺われる話です。
かなりアブナイけど、“評価者が最前線で見てる”事が蒲生の強さの源泉なのですね。
 
 
イメージ 3
日野町に伝わる“氏郷画像”
よく眼にする落ち着いた中年の画像と違い、溌剌とした青年武将の姿を伝えています
戦国時代に武勇・知略の将は数多出ましたが、文武両道がこうも高いレベルで備わった武将といえば、氏郷の他には太田道灌くらいしか思い浮かびません。
 
 
 氏郷の凄いのはこうした“勇将・猛将”なだけでなく、文化人としても超一流な所で、この頃始めた“茶の湯”では千利休に弟子入りし、利休七哲の筆頭にまで上り詰めています。
 また同輩の“高山右近”にキリスト教入信をしつこく勧められて、遂に入信します(洗礼名:レオン)が、教義にハマッたら逆にしつこく右近を追い回し、教えを乞うたので、右近も辟易したといわれます。
 
 こうして一度やりだした事は極めるまで追求する探究心と行動力は、信長が見通した様に“常人ではなかった”という事なのでしょう。
 
 松ヶ島城は織田信雄が居城の田丸城に代わる居城として築いたもので、伊勢湾に面して伊勢街道が通る要地にあり、太守に相応しい壮大な平城で、金箔に飾られた五層天守が建っていたそうです。
 
 しかし“山育ち”の氏郷はこの立地とお洒落な城が気に入らず、少し内陸の四五百森(よいほのもり)に新たに実戦的な城の築城を始めます。
築城には松ヶ島城の石や建物だけでなく、領内の寺社の用材が投入されて急ピッチで進み、1588年(天正16年) には竣工して“松坂城”と命名されます。

 

イメージ 4
松坂城縄張り図
外郭には土塁と水堀を持つ広い城域でしたが、現在は石垣の央の部分だけが松坂公園として残っています
 
 
 城だけでなく松ヶ島城下の領民を強制移住させて造った城下には、故郷日野からも近江商人を呼び寄せた日野町を造り、“楽市楽座”をひいて“伊勢商人”繁栄の基盤を作りました。

 

イメージ 5
商都松阪の商家“松坂商人の館”
江戸で紙や木綿を手びろく商いしていた豪商、小津家の邸宅で一般公開しています
 
イメージ 6
商都松阪の商家“長谷川邸”
旧木綿問屋『丹波屋』です
 
イメージ 7
商都松阪の商家“三井発祥の地”
御存知、三井の最初の店跡です 内部は非公開
 
イメージ 8
松阪といえば“松坂肉の和田金”
店の前を通りましたw
 
 
中編へつづく