蒲生氏の城  滋賀県 日野城  登城日2015.03.29
 
イメージ 1
 
 
   城郭構造    平城
 天守構造    なし
 築城主      蒲生定秀
 築城年      1533年 (天文2)
 主な城主    蒲生定秀、氏郷、田中吉政、名束正家
 廃城年      1600年
 遺構        土塁、空堀、水堀、井戸
 指定文化財  なし
 所在地      滋賀県蒲生郡日野町西大路
 
 
  続いて同じ日野町にある“日野城”を訪ねます。
通名:中野城で、地図や看板もそうなっていますが、当時の文献等では日野城もしくは蒲生城らしいので、ここは“日野城”とします。
 
  戦国期後半、六角氏宿老の蒲生氏は六角領の東側を守っていましたが、度々山を越えて伊勢にも侵攻し、伊勢の諸豪族とも連携を深めて行きます。
特に関氏一党とは“不可侵”の立場で緊密で、定秀は関盛信、神戸友盛の両名に娘を嫁がせ、縁戚を結びます。
 
 これが有効に機能したのが織田信長の“六角攻め”の時で、六角承貞が観音寺城を捨てて早々に甲賀に逃れる中、定秀の子で当主の蒲生賢秀は日野城に籠って、徹底抗戦の構えを見せます。
 
 これに対し既に織田家の傘下にあった賢秀の義弟の関盛信、神戸友盛が日野城に乗り込み、賢秀を説得して、信長に人質の嫡子:鶴千代(氏郷)を差し出す事で蒲生氏の存続と落ち目の六角氏から織田家中への編入に成功しました。

 関氏一党によるこの蒲生氏救済の動きは、織田家に大きく利するものでしたが、信長は決して是を評価せず、反対に盛信、友盛両名を『独断専横!』として日野城に監禁させてしまいます。
三男:信孝の養父の神戸友盛には隠居を迫り、信孝に家督を譲らせます。
分家の養子:信孝に反抗的だった関氏本家の盛信は、長期間拘束する事によって信孝の関氏一党に対する支配強化を円滑にします。
 
 これから利用する蒲生氏への寛容さと、すでに支配下にある関氏一党への冷酷さは信長の人間的本質をよく顕わしていますね。

 

イメージ 2
日野城の縄張り  広大な城域をもつ城ですが、今は左上の高台と堀跡が残るのみです
 
 
 人質として岐阜に赴いた蒲生鶴千代(氏郷)を引見した信長は、まだ13歳にして利発な人柄をたいそう気に入り、自ら元服させた後は娘婿にして重用します。
その後の北畠攻め、浅井・朝倉攻め、本願寺攻め、長篠の戦と…信長の合戦に参陣し、武人としての能力を磨いて行きます。
 
 父:賢秀も日野城にあって一族の扱いを受け、安土城に移転した後には信長の留守中の城代を務めるのが慣例になるほど重用されています。
“本能寺の変”の当日も安土城に在った賢秀はすぐに日野城の氏郷を呼び寄せ、信長の妻妾を伴って日野城に退避させる機転を利かせ、信長の恩に報いました。
 
イメージ 3
本丸跡に建つ日野城碑
 
 
 
日野城を歩く
 
 雨はやみそうにありませんね。
音羽城からR477に戻り、2kmほど西に走り、日野川ダムあたりで左折して入って行くと、ダム湖の北辺に日野城址はあります。
 城址といっても多くは市街化し、またダムの湖底に沈んでおり、江戸時代にここに陣屋を構えた市橋氏の活用した遺構が僅かに残るばかりです。
 
イメージ 4
湖畔の本丸跡に建つ料理旅館と駐車場
この駐車場はダム湖公園の駐車場です
裏の森が城址遺構で、右奥の看板の所から入って行きます
 
イメージ 5
日野城本丸の物見台と思われる遺構
 
イメージ 6
市橋氏はそこを稲荷社にしました
 
イメージ 7
その奥には水堀と土橋があり、陣屋跡の広場に続きます
 
イメージ 8
城址遠景  茶畑の上の段が本丸だった様です
 
イメージ 9
本丸跡にはこういうのも有ります
 
 
 信長の死後に家督を継いだ氏郷は、日野城を根拠にその後は羽柴秀吉の麾下で活躍しますす。
伊勢での滝川勢との戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、また伊勢での織田信雄勢との戦いと戦功を重ねた氏郷には12万石と倍増の石高で伊勢松ヶ島城が与えられ、生まれ育った日野を離れる事になります。

 

イメージ 10
日野市街の公園に建つ氏郷の像
会津から九州に向かう折、近くの武佐の宿で遠くに故郷の綿向山を眺め、歌を詠んだ姿だそうです
『思いきや 人のゆくえぞ 定めなき わが古さとを よそに見んとは』