蒲生氏の城 滋賀県 音羽城 登城日2015.03.28

城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 蒲生貞秀
築城年 応仁・文明年間
主な城主 蒲生貞秀、秀行、秀紀
廃城年 1525年
遺構 土塁、空堀、郭、井戸
指定文化財 なし
所在地 滋賀県蒲生郡日野町大字音羽(音羽山公園)
天守構造 なし
築城主 蒲生貞秀
築城年 応仁・文明年間
主な城主 蒲生貞秀、秀行、秀紀
廃城年 1525年
遺構 土塁、空堀、郭、井戸
指定文化財 なし
所在地 滋賀県蒲生郡日野町大字音羽(音羽山公園)
“城ある記” 続いては、関氏一党と繋がりの強かった、近江の豪族“蒲生氏”の城を訪ねて廻ります。
蒲生といえば、蒲生氏郷の名が全国的によく知られていますね。
蒲生氏は平安時代の藤原秀郷を祖とする名族…といわれていますが、その発祥は更に古く、古代からこの地に勢力を張っていた“蒲生稲置”の子孫とする見方が今では有力な様です。
蒲生氏は平安時代の藤原秀郷を祖とする名族…といわれていますが、その発祥は更に古く、古代からこの地に勢力を張っていた“蒲生稲置”の子孫とする見方が今では有力な様です。
古代からの“大国”近江国にあっても、蒲生郡は北は愛知川、南は日野川流域の豊かな穀倉地帯で、そこを根拠とする蒲生氏は大きな勢力を抱えた“近江の名士”だったのだと思います。
時代の変化に敏感な一族で、この地を経て京へ向かう源頼朝、足利尊氏にも積極的に協力して永らく勢力を維持していました。
鎌倉~室町時代は近江守護:佐々木氏の客将という扱いで重用されています。
時代の変化に敏感な一族で、この地を経て京へ向かう源頼朝、足利尊氏にも積極的に協力して永らく勢力を維持していました。
鎌倉~室町時代は近江守護:佐々木氏の客将という扱いで重用されています。

戦国の世になり、佐々木氏が六角氏、高島氏、京極氏などに分裂すると、嫡流の六角氏に従い、南近江から伊賀にわたる戦国大名:六角氏の成立に寄与しています。
六角氏は蒲生郡の西寄りの“観音寺城”を拠点にしていましたが、この頃の蒲生氏の領地は同じ蒲生郡でも東の日野谷にあり、居城は蒲生貞秀が応仁の乱の頃に築いた“音羽城”でした。
六角氏は蒲生郡の西寄りの“観音寺城”を拠点にしていましたが、この頃の蒲生氏の領地は同じ蒲生郡でも東の日野谷にあり、居城は蒲生貞秀が応仁の乱の頃に築いた“音羽城”でした。
貞秀の嫡男:秀行は将軍に仕え、二男:高郷は六角氏に仕えますが、秀行の嫡男:秀紀が家督を継ぐと、叔父:高郷との間に諍いが生じ、音羽城を舞台にした3年にわたる蒲生氏の内乱がありました。
戦いは六角氏に支援された高郷が勝ち、蒲生氏の本流となりますが、荒廃した音羽城は廃城とされ、新たな居城は高郷の嫡男:定秀によって日野城(中野城)が築かれました。

音羽城縄張り
単一の大きく広い主郭で、空堀と帯曲輪がグルリと巻く中世居館を山上に上げた様な珍しい縄張りです
音羽城を歩く
あいにくの雨模様の中、鈴鹿峠を越えて訪ねてみました。
音羽城は日野の市街から少し東に外れた、日野川沿いの小山の上にあります。
史跡指定は無いものの、公園として綺麗に整備されていて、無名の城址としては訪れやすい城でした。

駐車場から主郭への道 クルマ止めの内側も舗装の散歩道が続きます。

山上の主郭 一面の広い芝生広場ですから、かなり改変されている様です

主郭の周囲を巡る空堀と帯曲輪

蒲生秀紀の奥方の入水伝説がある井戸
水面が見えないから木片を落してみたら3秒後に水音が返ってきました

郭上と麓の高低差は40mくらいか…

出丸も幾つか有り“伝武家屋敷”となっていました

3年もの籠城を可能にした水の手には今も滾々と水が湧いています