関氏5家の城  三重県  神戸城  登城日2015.03.14
 
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   城郭構造   輪郭式平城
 天守構造    天守台あり
 築城主      神戸具盛
 築城年      天文年間(1532~1555年)
 主な城主    神戸氏8代、一柳氏、石川氏、本多氏
 廃城年      1871年
 遺構        石垣、堀、移築櫓・門
 指定文化財   三重県史跡
 所在地      三重県鈴鹿市神戸本多町
 
 
  関氏5家の城の中で神戸城は最も新しく、戦国終盤の天文年間に築城されました。
1367年、関氏の当主:関盛政は長男:盛澄に河曲郡神戸の地を与えて神戸氏を名乗らせ、北東方面の抑えを命じますが、その時に盛澄が築いた城は“沢城”と言い、神戸城址の1.5kmほど西にありました。
 
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神戸氏の初期の城“沢城址”
30年ほど前、この近くに住んでいたのでよく見ましたが、もう城の面影はありません
 
 
 沢城を廃して神戸城を建てた具盛は神戸氏6代目で、その名で推察できる様に国司:北畠氏からの養子でした。
男子の無かった神戸為盛は妻の実家:北畠氏から当主:材親の子を養子に迎え、同時に敵対関係を解消して同盟を結びます。
 
 具盛が当主になると北畠氏の支援を背景に神戸氏の矛先は北の三重郡(四日市市)へと向かいますが、おそらくその過程でより後詰めしやすい場所で、規模を拡張する為の移転だったと思われます。
 鈴鹿川を越えて、大きく勢力を拡大した神戸氏は本家:関氏を凌ぐほどになり、本家との抗争の場面もあり、関氏一党のその後の動向に大きく影響を与えます。
 
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鈴鹿川北岸にある支城“高岡城跡”
三重郡進出の拠点で、名将:山路弾正を置き守らせました
 
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 永禄10年(1567)、9代友盛のときに織田信長が伊勢に侵攻して来ます。
“北勢四十八家”と称される小豪族群を伐り従えた信長は神戸城と出城の高岡城を囲みますが、この時は高岡城主:山路弾正の奮戦もあって、信長は一旦岐阜に引き揚げます。
 
 翌年、四万もの大軍で来襲した信長はまたたく間に神戸城を囲みます。
今度ばかりは抗する術を無くした友盛は、信長の講和条件を受け容れ、信長の三男:信孝を養子に迎える事で和睦を図ります。
関氏一党も結局はこれに従い、織田家の与党になりました。
 
 元亀二年(1571)、織田信長が近江の六角氏を攻めると六角氏の重臣:蒲生秀賢が頑強に抵抗します。
秀賢の義弟でもあった神戸友盛は蒲生家存続の為に奔走しますが、信長はこれを敵対行為と見做し、友盛を幽閉して、半ば強引に信孝へ家督を相続させます。
  その後、友盛は安濃津で死去し、男子の居なかった関氏系神戸氏は絶えてしまいます。
 
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戦国期の面影を残す神戸城の土塁部分
 
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天守台と本丸広場
 
 神戸氏を継いだ信孝は関氏一党の家臣化を進め、居城の神戸城は大幅に拡張されて、五層の天守が建てられ、天下人の一族の象徴である“金の鯱”が輝いていたそうです。
 
 天正10年(1582)、四国攻めの総大将に任じられた信孝は伊勢・伊賀の国人を総動員して堺に集結し、渡海を始めます、が、まさにその時に“本能寺の変”が起こります。
  副将の丹羽長秀と共に京の至近に居て、大軍を擁する信孝ですが、臨時に集めた軍兵は著しく統率に欠け、信長憤死の報が伝わるとアッと言う間に四散逃亡してしまいます。
*亀山の関盛信をはじめとする関氏一党も独自の判断で一族で伊勢に帰還しています。 
 
  信長の後ろ盾を無くした信孝に何の求心力も無く、真に伊勢を統治できて居なかった証拠ですね。
 自ら動けず、中国から戻った羽柴秀吉に相乗りするしか無かった信孝はその後は織田姓に戻して伊勢を離れ、美濃を領しましたが、後継者争いの中で後ろ盾だった柴田勝家の死と前後して自害しました。
 
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江戸期 本多氏治世の神戸城  本丸と堀端の周辺が神戸公園として残ります
 
 主を失くした神戸城にはその後、滝川勝利、一柳直盛などが入りましたが、一柳氏が伊予に転封になると一旦廃城となって破却され、建物は桑名城の作事に使われたそうです。
 
 万治3(1660年)石川氏が2万石で封されて神戸藩が再建されると、享保17(1732年)には河内から本多氏が転封して来て荒廃していた神戸城を整備して、明治維新まで続きました。
 
 
 
神戸城を歩く
 神戸城址は鈴鹿市の古くからの中心である神戸(かんべ)にあります。
荒神山で吉良の仁吉が加勢した神戸長吉(かんべのながきち)の神戸ですが…余計に判りにくいかな?w
 亀山城と同様、江戸時代に生き残った神戸城址は比較的良く残り、多くが市街化や学校(神戸高校)に換わってはいるものの、本丸跡は神戸公園として保存整備がなされています。
 
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狭くなったけど水掘も残ります
 
  伊勢街道の宿駅としても栄えた神戸の街は、江戸期の名残りを残す風情のある街並ですが、それだけに道幅が狭く、クルマだと少し苦労しますね。
この日はちょうど龍光寺の縁日(神戸の寝釈迦)と重なり、久しぶりに賑わう神戸城でした。
 
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縁日に集まった子供達で賑わう天守台の石垣  久々に賑やかな訪城でしたw