関氏5家の城 三重県 国府城 登城日2015.03.14

城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 関盛門
築城年 1367年
主な城主 国府氏8代
廃城年 1584年
遺構 曲輪、土塁、空堀
指定文化財 なし
所在地 三重県鈴鹿市国府町字長ノ城
天守構造 なし
築城主 関盛門
築城年 1367年
主な城主 国府氏8代
廃城年 1584年
遺構 曲輪、土塁、空堀
指定文化財 なし
所在地 三重県鈴鹿市国府町字長ノ城
国府城も峯城と同様に1367年、関盛政から分家した二男:盛門により築かれました。
国府の地はその名の通り、古代の伊勢国府が置かれた場所と言われ
国府の地はその名の通り、古代の伊勢国府が置かれた場所と言われ
*諸説あります
付近には古代の古墳群もあります。
付近には古代の古墳群もあります。

近くにある大きな前方後円墳の“王塚古墳”
この地を治めた首長の墓と言われます 大和朝廷に協調した豪族の拠点に国府を置いた…という事ですね
鈴鹿川右岸の台地上で、水田には不向きな地形ですが、古くから栄えていた重要な場所の様で、関盛政はそこに二男:盛門を配して“国府氏”を名乗らせます。
国府氏は8代続き、関氏一党の一員として亀山の関本家と行動を共にします。
国府氏は8代続き、関氏一党の一員として亀山の関本家と行動を共にします。
安濃郡の長野氏と境を接する為、戦国期に入ると主に南向きの戦線を担当したんだと思われますが、永禄11年(1568)に一族の神戸氏が織田信長に降ると、若干の抵抗は試みたものの、関本家と同様に信長の麾下に属しています。
その後は神戸信孝に従軍して行きますが、天正11年(1583)、賤ヶ岳合戦の前哨戦では羽柴秀吉の軍勢に囲まれて落城の憂き目に遭っています。
賤ヶ岳合戦の後、この地は織田信雄に与えられた為、国府氏は信雄に仕える事で国府城を維持しますが、天正12年(1584)には再度秀吉軍に囲まれます。
賤ヶ岳合戦の後、この地は織田信雄に与えられた為、国府氏は信雄に仕える事で国府城を維持しますが、天正12年(1584)には再度秀吉軍に囲まれます。
この時、関本家の関盛信は秀吉の調略を受けて寝返りますが、国府氏8代:盛種はこれに従わず、あくまでも信雄に殉じる姿勢を取った為、蒲生氏郷軍に攻められて落城し、国府氏は滅亡しました。
これと共に国府城も廃城になった様です。
これと共に国府城も廃城になった様です。

聖徳太子の創建と伝わる“府南寺”
国府城を歩く
国府城址があるのは亀山城の東3km、鈴鹿川の下流の右岸で、峯城とは対岸になります。 鈴鹿川に向けて延びる舌状台地を利用して、三方の天然の崖と残る一方を堀で仕切った典型的な崖端城の様です。

外郭の斜面は竹と雑木がビッシリ密生して、地形はまったく判りません
国府城址へのアプローチは狭い旧道が主体なので、土地勘が無いと少し難しいのですが、“国府小学校”の敷地の西に連なる台地上が主な城址遺構だと言われています。周辺は市街化、耕地化が進んでいて、城址自体も史跡指定が無く、公園整備などは一切無いので、駐車場もありません。
“国府城”の存在はもう地域住民の気持ちに無く、現代を生きてる住宅地の中で、国府城址を訪ねる人はかなり“特殊な人”なので、いつも以上に“他人の不動産を観て廻ってる”事を意識しないといけませんね。

本郭の仕切りだったと思われる空掘の跡 もう、何が何だか…。

開墾が進み、看板のすぐ後ろまであった竹藪(本丸土塁)も随分遠くなりました

城の傷跡を見せ付ける様な土塁の断面

僅かに面影を残す南側の土塁と空堀跡
外郭の下を北廻りでグルリ廻り、壇上に上がって本郭に入って行きます。
話には聞いていたし期待もしていませんでしたが、それにしてもこの徹底ぶりは凄いですね。
有志が建てた城址看板以外には国府氏を祀る祠ひとつありません。
気が滅入って来るので、支城を幾つか覗いて神戸城に向かいます。

国府城の支城“和泉城址” 鈴鹿川の対岸にあり、神社になっていました

鈴鹿川のやや下流にある“平野城址”
宅地開発が進んで消滅は時間の問題か…。 本郭内にはソーラーパネルが並んでいました。