関氏5家の城  三重県  峯城      登城日2015.03.15
 
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   城郭構造   平山城
 天守構造     あり(詳細不明)
 築城主       関政実
 築城年       1367年
 主な城主     峯氏6代、岡本宗憲、滝川益重、佐久間正勝
 廃城年       1590年
 遺構         土塁、空堀、天守台、井戸
 指定文化財  県指定史跡
 所在地      三重県亀山市川崎町森字殿町
 
 
  峯城も鹿伏兎城と同様に1367年、関盛政から分家した五男:政実により築かれました。
その所領は24ヶ村、兵数600人の規模で、新たに峯氏を名乗り、峯氏は6代続きました。
 
 峯氏も他の分家と同様に、亀山の関本家と行動を共にして戦国期を生きて行きますが、安濃郡の長野氏と抗争する傍ら、地勢上近江六角氏とは誼を通じていたようで、難しい時代を絶妙なバランス感覚で生き抜いていた事を物語っています。
 
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峯城がある安楽川沿いの谷間
安楽越えは近江と伊勢を結ぶ主要な街道でした 奥の高架は新名神高速道路
 
 
 永禄十年(1567)になると織田信長が伊勢に進攻してきます。
この戦いには主に神戸氏が当たりますが、翌年には神戸氏が信長の三男:信孝を養子に受け入れる事で和睦し、関本家も峯氏も同様に信長の麾下に属する事になりました。
信孝が神戸氏の家督を継いだ後は神戸氏の家臣という扱いだったと思われます。
 
 天正二年(1574)、織田信長が長島一向一揆の制圧に乗り出すと、峯氏の当主:盛祐も長島に従軍します。
一揆勢との戦いは激烈で、数万の門徒が殺戮されて終息しますが、この戦いで盛祐は討死してしまいました。
盛祐には嗣子が無く、ここでいち早く峯氏は滅んでしまいます。
 
 神戸信孝は尾張から連れて来た重臣:岡本宗憲を新たに峯城主としたので、峯城の将兵の多くは亀山の関盛信の元に去り、入れ替わったんだと思われます。
 
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後期の峯城想像図
黒澤映画に出て来そうな城ですが、戦国末期の城の姿がよく解ります 天守の基壇の石積みも若干残っています
 
 
 天正十年(1582)、本能寺の変が起こり、信長、信忠が横死してしまうと、後継争いで信孝は織田姓に復して兄信雄と争います。
信孝には柴田勝家、滝川一益らが与して、やがて羽柴秀吉と賤ヶ岳で激突しますが、峯城の岡本宗憲は独断で信雄に与する羽柴秀吉方に寝返ってしまいます。
 
  長島城の滝川一益は直ちに峯城攻略の兵をさし向けて城を奪取すると、甥の滝川益重を峯城主として配しました。
滝川益重は前田利益(慶次郎)の実父で、子の無かった前田利久(利家の兄で荒子城主)に請われて養子に出したという説もあります。
 
 翌年2月、羽柴秀吉は柴田勝家が雪で動けぬ間を衝いて北伊勢に侵攻し、亀山城、新所城、国府城と共に峯城を包囲します。
滝川一益の桑名城も蒲生氏郷らが包囲して、滝川方の城は個別に戦う事を余儀なくされます。
 
 峯城の守将:滝川益重は三千の兵で籠城戦を戦いますが、2月末に国府城が落ち、3月初には亀山城が落城します。
孤立無援の峯城は羽柴秀長、羽柴秀次、筒井順慶といった諸将が付城を築いて攻囲し、盛んに攻め立てたので4月中旬にはついに開城しました。
益重はこの時の奮闘が認められ、以後は秀吉に仕える事になりました。
この直後、大挙して北近江に移動した秀吉軍は柴田勝家と賤ヶ岳合戦を行ない、天下をほぼ手中にします。
 
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落城伝説を伝える、城内の“かんざし井戸”  水位が高い!
 
 
 賤ヶ岳合戦の結果を以て織田信孝が自害すると、北伊勢は織田信雄の支配地となり、信雄は峯城を佐久間盛信の子の正勝に与えました。
 翌天正12年(1584)に入ると信雄は徳川家康と組んで、秀吉と敵対する状況になります。
3月、秀吉は北勢に再び侵攻し、亀山城の関盛信を調略すると峯城を囲みます。
攻城側は蒲生氏郷、滝川一益、関盛信などで、勝手知ったる峯城をわずか数日の攻撃で落城させ、佐久間正勝らは尾張に逃げ去ります。
 
 大軍相手に三度の攻防戦と落城を経た峯城はその後再度岡本宗憲に与えられますが、天正18年(1590)に宗憲には亀山城(新城)の築城が命ぜられ、そのまま居城も移転したため峯城は廃城となりました。
 
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峯城から見る“古城跡”
初期の峯城とも、出城とも言われてますが、城の大きさと向きから見て、峯城攻囲の時に作った付け城が正しいんではないかな? 羽柴秀長作と見た。
 
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