亀山城の続きです…。
 
 伊勢亀山藩主はその後本多氏→石川氏→板倉氏→大給松平氏→板倉氏と目まぐるしく替わり、最後は石川氏が11代続き明治を迎えますが、概ね5~6万石の規模で推移します。
 鈴鹿峠を控えた伊勢亀山城の本丸は上洛の際の将軍宿所として使われ、藩の政務は代々二ノ丸御殿で行われていたそうです。
 
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ジオラマで見る本丸(左)と二ノ丸
 
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伊勢亀山城を歩く
 訪城の最初は亀山市歴史博物館から始めます。
亀山城址は平山城で、城址は現在も、市役所や学校、病院などが立ち並ぶ市の中心地なので、城の全貌を把握するには博物館の資料が頼りなのです。
 
 この博物館、全国にあまり例のない大規模なジオラマがあって、江戸初期の城と城下(亀山宿)を再現して見せてくれます。
 城のロケーションは鈴鹿川と支流の椋川に挟まれた東西に長い丘陵地で、小高い丘と谷が複雑に入り組む場所に主郭を配しています。
西は竜川が刻む深い谷を利用して外郭とし、東は丘陵の平地を空堀と土塁で遮断して備えとしていますが、やはり江戸期の城ですから“西向き”ですね。
 
 東海道は城の南側の塁壁をなぞる様に走り、所々に急坂や複雑なクランクがあったりで、あまり見通しは良くなく、ここにあった亀山宿での宿泊は、参勤交代の大名にとっては居心地が悪かったのでは?と思われます。
 
 博物館を出て城址を歩いてみます。
普段から戦国時代の城を中心に“城あるき”をしてるので、まずは関氏の“古城”が気になるところです。
 
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古城本丸南面
 
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 博物館の隣にある小丘が古城の本丸だった様ですが、残念ながら私有地で、立ち入りは柵で厳重にガードされています。
丘の西側にも同様な丘が続くので、連郭式の主郭が構築されていたものと思われますが、実査は断念し、“本丸跡”の周りを歩いてみます。
 丘の南側に“古城跡”の石碑と説明看板がありました。
どうやら城址は、江戸期の城で武家屋敷として大幅改変された様で、発掘調査をしても古城の範囲や遺構の特定は難しい様です。
伝承された地名で古城としてる様ですね。

 

 
 江戸期の近世城址へ向かいます。
城との間には深い谷があり、谷底は池になっていて、天然の水堀を形成しています。
北側から見ると池の向こうには本丸、二ノ丸、三ノ丸が連郭で続くので、“内堀”になりますが、鉄砲の時代に充分な深さと幅があります。
 堀底には木橋の歩道や菖蒲園などが整備されていて、市民の憩いの場になっています。春に来るとキレイでしょうね。
 
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北側の堀底は公園になっています
 
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