東海の城探訪 三重県 伊勢亀山城 登城日2015.02.08

城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 詳細不明
築城主 関実忠
築城年 文永2年(1265年)
主な改修者 岡本宗憲、本多俊次
主な城主 関氏、岡本氏、本多氏、石川氏ほか
廃城年 1873年
遺構 多聞櫓、石垣、堀、土塁
指定文化財 県指定史跡
所在地 三重県亀山市本丸町
宮の渡しから桑名に上陸した東海道は、伊勢の国を南下して鈴鹿川沿いに関谷(せきだに)に入ると、“鈴鹿峠”を越えて近江に抜けて行きます。
亀山城はその関谷の中心地“亀山”にあります。
“亀山城”と言えば丹波亀山(亀岡)城など、他に有名な亀山城もあり間違われると大変な事になるので、ここでは“伊勢亀山城”とします。
伊勢亀山城の創建は1265年と古く、鎌倉御家人として関谷を領した関実忠が、領地支配の中心拠点として若山(現:古城)に築城しました。
関氏は伊勢平氏の一族で、戦国末期まで300年あまり鈴鹿・河曲の両郡を支配しましたが、1567年から織田信長の侵攻を受けます。
翌年には分家の神戸家に信長の三男:信孝を養子に迎える形で、一族はバラバラに織田氏の傘下になり、伊勢亀山城主だった関盛信は蒲生氏郷の与力になっています。

古城の本丸跡? 私有地につき見学出来ません

土の城の面影を残す古城エリア
羽柴秀吉の治政になると蒲生氏郷は会津に封され、関盛信も同行して白河城主になっています。
代わって伊勢亀山城に入ったのは岡本宗憲で、この時、宗憲は旧来の城から南の丘陵に主郭を移転して、石垣造りの“近世亀山城”を造築し、天守閣も造られたそうです。
その後、“関ケ原”で西軍についた岡本氏が改易されると伊勢亀山城には関盛信の息子:関一政が3万石で復帰しますが、10年ほどで伯耆に転封になり、松平忠明~天領を経て、1619年に三宅康信が1万2千石で配されます。
三宅氏2代目:康盛の治政のとき、出雲松江藩主:堀尾忠晴(24万石)が幕府より“亀山城天守の修築”を命ぜられ、すぐさま工事に取り掛かります。
天守を一旦解体して、石垣の修繕に取り掛かった時に“幕府の命は丹波亀山城だった”事が判明しますが、幕府は小藩の三宅氏には天守の再建を許さず、それ以降は天守台に天守が載る事はありませんでした。
天守台に建つ多聞櫓は三重県で唯一の現存櫓です

多門櫓内部