赤木城の最後です…。
 
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主郭の横矢と下に見える西郭
 
 主郭から街道に続く西面には西郭が配され、石垣で固められた三段構造で街道へと降りて行きます。
石垣の下には搦手道と思われる道の痕跡もありました。
 この西郭と最初に登った東郭の間に抱かれる様に、南郭と呼ばれる三段の郭があります。
たぶん平時の高虎の居館が在ったのでしょうね。
 
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居館跡?は東西の郭にシカリ守られています
 
 
 駐車場に戻って、今度は少し離れた場所から敵対勢力(一揆勢)の眼で改めて城址を見てみます。
一揆を鎮圧するという目的から考えると、石垣の城はいかにも大袈裟な、明らかにオーバースペックな感じがしないでもありません。
たぶんこの城が一揆勢に囲まれて、落城の危機になった事は無いんじゃないかな?
 
 竹田城にしても、高取城にしても、豊臣秀長の城は過剰な雰囲気がありますよね。
州という土地柄、雑賀の残党が居たり、鳥獣の猟師が多く居て鉄砲が普及していたという背景が有るかも知れませんが

 

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石垣の城郭はやはり迫力があります
 
 
 ともかく、赤木城の築城にはのべ何十万人という労力が必要で、高虎の家臣では全く足りなくて、地元の領民が多く駆り出され、半強制に使役された事でしょう。
慣れない石垣工事は困難を極めた事でしょうが、付近の民家を見ると何かと石垣が多用されている事に気付きます。
 ここで覚えた石垣積みの技術は子孫へと伝承され、生活の向上に役立てられたという事でしょうか ひょっとしたら丸山千枚田もこれを契機に造営され、収穫量の増加に繋がったのかもしれませんね。
 そうだとすれば、領民を苦しめた赤木城址は石垣工事の見本として大切に保護され、今日に残ったのかも。
そんな気がしてきました。
 
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ロケーションは深い山の奥でした