里見の城を歩く③ 安房国 滝田城  登城日2014.12.06
 
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  城郭構造   山城
  築城主    里見義豊
  築城年          天文年間
  主な改修者    里見義堯
  主な城主       一色九郎(城代)、里見義堯
  廃城年          ?
  遺構曲輪、  土塁、竪堀、堀切、櫓台、物見台
  指定文化財    なし
 所在地   千葉県南房総市上滝田・下滝田付近
 
 
 昼食のあとは内陸に入って滝田城跡に向かいます。
南総里見八犬伝では初代:義実の居城で、物語の舞台となる城ですが、実際には3代:義豊が造った城の様です。
 
 城下を南北に走る平久里街道は、館山から房総山中を抜け木更津方面に抜ける、当時から最も重要な道で、この道の往来を押さえる事は支配者にとっても重要で、義豊はここに義弟の一色九郎を置いて守らせました。
 
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城址の大手虎口
一色氏は足利系の氏族ですね 
 
 八犬伝の舞台のこの城、実は里見氏最大の内乱『天文の内訌』の舞台だったのです。
天文2年(1533年)、稲村城で叔父の実堯と正木通綱を討った義豊は、その後実堯の子:義堯に攻められ、滝田城に籠ります。
義堯は間髪置かず滝田城も攻め、支えきれなくなった義豊は真里谷氏を頼って上総に逃げ、城主:一色九郎は自刃しました。
 
 滝田城を接収した義堯がしばらく滞在していた所、真里谷氏の援軍を連れた義豊が戻って来ます。
義堯はこれを城下の犬掛で迎え討ち、激戦の末に義豊を討ち、真里谷勢を敗走させます。
 
 この機を捉えて義堯は滝田城を拠点に真里谷領に攻め込み、平定して居城を久留里城に移すまでの間、里見氏の拠点でした。
里見氏の当主の交替(本家⇒分家)、上総へそして戦国大名への飛躍には重要な舞台の城だったと言えますね。
 
 
 
滝田城を歩く
 岡本城から内陸へ東に向かいます。
館山の辺りは山がちな房総半島でもまとまった平地のある地域で、豊かな田園風景が広がります。
 県道88に入って北上し、谷間が狭くなってくる上滝田に滝田城址があります。
県道の左手の山が城址で、駐車場の登り口が2ヶ所ありますが、先達のお奨め通りJA横から入って、北の根小屋口(大手口)を目指します。
 
 駐車場に着くと人生の先輩5人組が登城を始めるところでした。
こうした城址で人に遭う事は珍しいのですが、果敢に挑まれる姿はほのぼのとしますねw
少し間を開けて登って行きます。
 
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登りだしてすぐ有る馬場跡 広さからして武者溜りかな
  
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名前の割に広さが足りない二ノ丸
土塁は崩れたのか、段差のメリハリが曖昧です 
 
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こういう“板根”の木って、あまりお目に掛かれません
 
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本丸跡 礎石建物も有った様です
 
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本丸から一段上がった櫓台 送電線の鉄塔があります
  
 この山は他の里見の城の様に岩山ではなく、岩盤を削った様な防塁もなく、武蔵や上野の城址に似た雰囲気を感じます。
  大規模な土塁や枡形も無く、大手道に沿って点在する郭も小規模なもので、一時期居城になったとはいえ、機能の多くは根小屋にあり、城塞部分は小規模なものだった様です。
安房一国の領主とはいえ、安房は5~6万石程度の国ですから、千名余りの兵士を10以上はあった城に分散配置すると、そうなるでしょうね。
 
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北側の風景
平久里街道が走り、その向こうには富山 中央の平場が犬掛です
 
  
 山頂の物見台に立つと浦賀水道の海が見えます。 そして北側には八犬伝ゆかりの富山がデンと鎮座していて…。
かつて平久里街道を歩いて取材に訪れた曲亭馬琴が、里見の城:滝田城址と富山を見て、ストーリーを組み立てて行った時の心情が見える気がしました。