里見の城を歩く① 上総国 佐貫城 登城日2014.12.06

城郭構造 連郭式平山城
築城主 武田(真里谷)義広
築城年 応仁年間
主な改修者 里見義弘、阿部正鎮
主な城主 真里谷氏、里見義弘、足利義氏、柳沢吉保、阿部氏 ほか
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 空堀、石垣、土塁、井戸
指定文化財 なし
所在地 千葉県富津市佐貫
築城主 武田(真里谷)義広
築城年 応仁年間
主な改修者 里見義弘、阿部正鎮
主な城主 真里谷氏、里見義弘、足利義氏、柳沢吉保、阿部氏 ほか
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 空堀、石垣、土塁、井戸
指定文化財 なし
所在地 千葉県富津市佐貫
最初の訪問は佐貫城跡です。
佐貫城は真里谷氏の城として武田義弘が築きましたが、天文6年(1537年)真里谷氏の内乱に乗じて、里見義堯が奪取します。
上総国で三浦半島にも至近のこの城は北条氏の侵攻を頻繁に受け、以後は里見vs北条で激しい争奪が幾度も繰り返された城でした。
佐貫城は真里谷氏の城として武田義弘が築きましたが、天文6年(1537年)真里谷氏の内乱に乗じて、里見義堯が奪取します。
上総国で三浦半島にも至近のこの城は北条氏の侵攻を頻繁に受け、以後は里見vs北条で激しい争奪が幾度も繰り返された城でした。
里見氏が義弘の代になると居城を佐貫城に定め、再度上総侵攻を加速しますが、永禄10年(1567年)、佐貫城の北4kmほどにある三船山で大きな決戦があり、これに勝利した里見氏がこの後の支配を確定しました。
義弘は久留里城に住み、佐貫城には城代:加藤信景と実子:竜王丸を置きますが、義弘が亡くなると岡本城に居た里見頼義が佐貫城を攻め、屈服させます。
頼義は岡本城を居城としたため、以後は支城として機能して行きます。
頼義は岡本城を居城としたため、以後は支城として機能して行きます。
豊臣秀吉の北条征伐が終わり、里見氏が安房のみに縮小すると、新たに上総を得た徳川家康は、家臣の内藤家長を2万石で佐貫城に入れ、幕府開府後も佐貫藩の居城として1万5千石規模の譜代大名が居住しました。
柳沢吉保も6年間を佐貫で過ごしています。
柳沢吉保も6年間を佐貫で過ごしています。
最後の藩主は備後福山藩の分家の阿部氏1万6千石で、6代:正恒の時に維新を迎え廃城になりました。

山上の物見台からは東京湾が臨めますが、海を支配できる距離ではない
佐貫城を歩く
トラベルルートに沿って、館山道を富津中央ICで降り、佐貫城大手口の駐車場を目指します。
里見の城でも江戸期に残った城という事で、里見の痕跡は少ないのを覚悟して向かいますが、 おや? 少し様子が違います…。
まず、城が近付いても城下町らしきものが有りません。
トラベルルートに沿って、館山道を富津中央ICで降り、佐貫城大手口の駐車場を目指します。
里見の城でも江戸期に残った城という事で、里見の痕跡は少ないのを覚悟して向かいますが、 おや? 少し様子が違います…。
まず、城が近付いても城下町らしきものが有りません。
目印の中学校を過ぎ、左手に城山?の丘を見ながら進んで行くとまた辺りは田園風景になりますが、まさにそこが佐貫城の大手口でした。
県道から左に折り返す感じで登ると駐車場の広場です。
城址を示す看板も小さく、駐車場の案内も無いので、シッカリ予習してないと見逃してしまいますね。
県道から左に折り返す感じで登ると駐車場の広場です。
城址を示す看板も小さく、駐車場の案内も無いので、シッカリ予習してないと見逃してしまいますね。

駐車場入り口
駐車場が無かったって声も多いけど、この上が広い駐車場です
駐車場は300坪ほどの広さがあり、同様な郭が段々に上に続いているから、ここが御殿跡なのかな?
とも思いますが、絵看板など一切無いので判りません。
*後で裏向きに倒壊して放置されてる看板を発見しましたが…。
ともかく主郭部分を目指して山に登って行きます。
とも思いますが、絵看板など一切無いので判りません。
*後で裏向きに倒壊して放置されてる看板を発見しましたが…。
ともかく主郭部分を目指して山に登って行きます。

大手道 らしいけど、江戸時代の城の道ではないなぁ

二の丸門と思われる遺構

本丸虎口の枡形

本丸の郭 さほど広くはなく、若干の傾斜もあります

2箇所ある物見台
壇上はフラットではなく、さしたる土木工事の痕もありません
ひと通り歩いて見て、予想に反して、これはまったくの戦国の城ですね。
大手道でも幅は狭く、石が敷いてある部分もなく、石垣なども殆ど見当たりません。
大手道でも幅は狭く、石が敷いてある部分もなく、石垣なども殆ど見当たりません。
江戸期の譜代の小藩は山の城砦部分は放棄していたのか、150年程度で
の荒れ具合ではありません。
最初から難しい城跡を訪ねてしまいました…。
