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 11,12月は本来なら、真田昌幸を追って伊那路・遠江・三河を歩く予定でしたが、年内で関東を離れる事になってしまったので、遣り残しの処置に追われていますw
 
  関東での見落としは何かと、いろいろ思い浮かべて見たら、里見氏がまだ手付かずなのに気付きました。
  曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』のファンタジーな世界は割り引いても、北条などの大勢力に容易に屈しない“誇り高き氏族=里見氏”に触れておかないと、きっと後で後悔する…ような思い込みで、土日の弾丸ツアーを敢行しましたw
 
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弾丸トラベルのルート
天候に恵まれたこの週末は首都高が大渋滞で、比較的空いていた京葉道路からのアプローチになりました
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
里見氏とは
 里見氏は河内源氏の新田流の氏族で、新田義重の長男:義俊が庶子であったため、上野碓氷郡の里見郷に所領を貰い、里見氏を名乗ったのが始まりです。
   里見氏は以後は新田氏と行動を共にし、6代:義胤の時には新田義貞とともに鎌倉幕府を追討しています。
 しかし、南北朝の争乱で南朝方に付き、次いで足利氏の内乱:観応の擾乱でも直義側に付いた為、所領を失ってすっかり没落してしまいます。
 
 里見氏の名前が再度出てくるのは9代:家兼の頃で、鎌倉公方:足利満兼に召し出されて常陸に所領を貰い、息子の家基と共に永享の乱、結城合戦を戦いますが、これも武運つたなく敗死してしまいます。
 この時、家基の嫡子:義実は僅かな供に守られて安房に身を隠したと言われ、これが安房里見氏の初代というのが通説でしたが、現在では鎌倉公方(古河公方)が背後の房総を確保する為に敢えて送り込んだ…説が主流の様です。
 
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 安房里見氏の変遷の記述は、江戸後期にそれをモデルに書かれた『南総里見八犬伝』が大ヒットした事で、物語と史実が混同される事が多く、書物による確証の無い謎な部分が多いのです。
真田信繁がいつまでも真田幸村な様に、人はロマンのあるストーリーにより魅かれるものだし、今回は史実の探究・考察は控え目にしますw
 
 
 
『南総里見八犬伝』とは
 説明するまでもありませんが、江戸時代後期の作家:曲亭馬琴が中国の『水滸伝』にヒントを得て28年もの歳月を掛け、全98巻で刊行した長編伝奇小説です。
あらすじをザッと流します…
 
 安房に逃れて来た里見義実は、館山の安西氏に攻められてピンチに陥りますが、飼い犬の八房の活躍に救われ、義実は八房に娘の伏姫を与えます。
姫を連れて富山という山に棲んだ八房は“気”によって姫を妊娠させます。
 
 犬の子を身籠った事を恥じた姫は割腹して果て、流れ出た血は光となって姫の数珠玉とともに八方に飛んで行き、それぞれの地で男の子になって産まれました。
 時は流れ、それぞれ剣士に成長した八人の男子達は、艱難辛苦を経ながら玉に導かれて里見の地に集結します。
 八剣士(犬士)は里見義実の子:義成を助けて房総各地の戦いに活躍して、大勝利を収めます。
国府台合戦も勝ちました… 天皇の調停で占領地を返し安房に退いた里見氏ですが、八犬士はそれぞれ義成の姫を嫁に貰い幸せに暮らし、老いた後は富山に戻って仙人になりました…。
 
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伏姫と八房が暮らし、八犬士が最後に戻った富山
 
  現代のファンタジー映画にも通用するストーリー展開で、江戸時代の日本人を夢中にさせた物語ですが、『ドラゴンボール』もたぶん影響を受けていますねw
 里見氏という実在の氏族がモデルなのは言うまでもありませんが、史実が受けた影響としては、ここに出てくる安房里見氏2代目の義成という人物、その存在を示す手紙や記述の類がまったく無くて、今では八犬伝に端を発した“架空の人物では…”というのが主流の様です。

 
安房里見氏の盛衰
 では史実に基づいた安房里見氏について、順を追って見て行きます。
初代:義実がまず拠点にしたのは房総半島最南端の野島崎に近い白浜の地で、安房の最大勢力である安西氏の庇護を受け、白浜の海に面した山上に城を設けて居城にしていました。
 その後、同じ安房に割拠する神余・丸・正木などの氏族を平定する過程で大きな力を持って行き、安西氏の居城:館山城に近い内陸に進出して稲村城を築いて移転した後、遂には安西氏をも服属させて安房を平定しました。
 
 2代目義通は稲村城を拠点に安房から上総南部に侵攻し、勢力を拡げます。
自ら古河公方:足利政氏に仕え、関東副将軍を自任し房総に里見氏の地位を確保しますが、政氏の子が古河と小弓に分裂すると小弓公方:足利義明を支持して行きます。
晩年は家督を嫡子:義豊に譲って、白浜城に隠居したそうです。
 
 3代:義豊も引き続き稲村城を居城としましたが、父:義通が死ぬと後見役の叔父:実堯が重臣の正木通綱とつるんでの専横が酷くなり、家中を分断しての争い“天文の内訌” が起こります。
 義豊は稲村城内で実堯を襲って殺害しますが、実堯の子の義堯はそれまで敵対していた北条氏の支援を得て反撃し、稲村城を奪うなど、一進一退の攻防を繰り広げた後、犬掛の合戦で義堯が勝利し、義豊は自害に追い込まれました。
 ここで里見氏は嫡流から傍流に当主が変わります。
 
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里見氏の領地
安房を基盤に上総・下総で一進一退の戦いを繰り広げます
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 4代当主となった義堯は上総国境に近い滝田城を本拠にして、上総の味方勢力を随時吸収して行って、次いで上総中央の久留里城を本拠地に替えて、下総をも狙う姿勢を示します。
この時が里見氏の最大版図の時ですが、そうなると小弓公方を廃して進出している北条氏とぶつかる事になってしまいます。
 下総の国府台で北条氏と対決した里見氏ですが、緒戦の勝利に油断した所を氏康の奇襲を受け、大敗してしまいます。
上総での支配権も失った義堯は安房国内まで一旦退いて、領地を大きく失ってしまいます。
 
 5代:義弘になると関東に上杉謙信が侵攻し、これに馳せ参じた里見氏は謙信の協力を得て、上総の領地を徐々に回復して行きます。
居城も上総の佐貫城に移し、北条氏の大攻勢にも勝利(三船山の戦い) して、最大版図をほぼ回復しますが、北条氏が謙信と同盟を結んだ事で謙信の後ろ盾を無くし、再度北条氏の攻勢を受け、下総からは締め出されてしまいます。
 ここで義弘は北条氏への敵対政策を転換し、和睦を図ります(房相一和)。
そんな最中、義弘は急死してしまいます。
が、義弘は後継者に決まっていた実弟:義頼と、遅くに生まれた実子の竜王丸との分割相続を遺言した為、里見氏にはまた内訌の危機が訪れます。
 
 6代:頼義はこの危機に北条氏政の支援を得て、竜王丸を出家に追い込む事により乗り切ります。
これには先の房相一和の盟約で、氏政の娘を正室に迎えていた運の強さがあります が、頼義は運だけでなく激動の時代を乗り切る眼力も持ち合わせていた様で、夫人が死ぬと躊躇なく北条包囲網に加わり、早くから豊臣秀吉にも誼を通じていて、安房・上総・下総の一部の所領安堵のお墨付きを得て、里見氏の生き残りに外交手腕を発揮しました。
 
 7代:義康は1590年の小田原征伐に遅参した事で秀吉の怒りに触れ、安房一国に減封されてしまい、居城も岡本城に退き、後に館山城を整備して移ります。
しかし、北条滅亡の機を捉えて三浦半島に侵攻しようとしたのが総無事令違反に問われたのが史実の様なので、意外とイケイケな性格だったのかも知れませんね。
 徳川家康も義康を“アブナイ奴”と捉えてた様で、小山評定では西上軍には加えられず、宇都宮の守備に回されて、後に秀忠軍への参陣を願い出ますが却下されています。
 徳川氏は里見氏と同じ新田系源氏の得川氏を祖として系図改竄してるから、義康の想いも複雑なものが有ったんでしょうね。
関ケ原後の論功では常陸の鹿島郡3万石加増に留まりました。
 
 8代:梅鶴丸は父:義康の急死で10歳で家督を継ぎ、江戸幕府館山藩2代藩主となります。
将軍:秀忠の前で元服し、偏諱を受けて、里見忠義と名乗り、幕府老中:大久保忠隣の孫娘を室として迎えました。
 しかし、大久保忠隣の失脚を口実に連座責任を問われて、伯耆倉吉3万石に減転封させられました。
更にその内実は鳥取藩お預けの罪人同様で、日を置かず忠義は安房の山海に想いを馳せながら、失意のうちに病死します。
嗣子が無い事からこれで安房里見氏は断絶してしまいました。
*里見忠義の死には8人の家臣が殉死したそうで、この忠臣を基に馬琴は八犬伝の構想を練り上げたとも言われます。
 
 
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次回からは里見の城紀行を順次紹介して行きます。