滝山城のつづき… 
 
 
 最終回は八王子移転の謎にせまって見ます。
まず、移転を決めたであろう1580年頃の北条氏照の環境ですが
 
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 武田信玄に滝山城を攻められた際、氏照は大石氏を中心の滝山衆の頭領の立場でした。
動員兵力は3千程度か。
 10年後の北条家での氏照の立場は飛躍的に向上し、下野、常陸、房総方面を束ねる筆頭の軍団長です。
 直轄領は広範にわたり、支城には滝山衆の有力な家臣を置いて支配しました。
また、制圧した地域の有力氏族を与力として組み入れ、動員兵力はざっと2万5千ですね。
 上杉、武田、徳川といった大勢力に対峙して一進一退を強いられた北征軍:氏邦に比して東に進んだ氏照は、古河公方勢力の結城、千葉、里見、小山、多賀谷…といった中規模の氏族を着実に傘下に収めて行き、北条領拡大の最大の功労者です。
 北条家中での発言権も大きく、特に軍事面では実戦経験の少ない氏政、氏直に代わり、評定を主導していた事でしょう。
 
 居城の滝山城を堅城に造り上げた氏照ですが上図から判る様に、担当する戦線は上野、常陸、上総にあり、侵略戦の滝山城での攻防戦はもう現実味の無いものになっています。
 
 
次いで移転先の八王子城にやって来ました。
 
 八王子城はこれで4回目です。
これまでは、実際に戦場となって玉砕した城という観点で興味深く見させてもらいました。
 
 日本100名城にも選定された城址ですが、城の機能として“関東一の山城”というほど傑作の素晴らしい城か?…というと、疑問符はありました。
 平時の生活の場である根小屋と、険しい山上に詰め城を持つ、戦国初期の形式の城です。
山城⇒平山城⇒平城 これは時代を追って城が発達して行った形態のプロセスで、村単位で小豪族が割拠する時代から、国や地方単位の戦国大名に大きく収斂される過程と一致します。
 
 では、氏照はなぜこのタイミングで山城の八王子城なのか? という事ですが、八王子城のスペックをじっくり見てみます。
八王子城の駐車場の上、山下曲輪にある立体模型です。
 
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八王子城立体模型図(東から) 
城山川に沿った谷間を根小屋として、それを馬蹄形に囲む険しい山の尾根筋を防塁とした、典型的な山城です。
 
  山城なのは判りますが、全貌が見えないので、平面図に置き換えて見てみますね。
 
イメージ 3 甲州街道の出口の要衝の地にあり、中央の谷間に住機能を集中し、隣り合う南北の谷間も防塁で囲った、
大規模な縄張りです。
 規模が大きい分、守るには大きな兵力が必要です。
郭塁の防衛に5千を配置し、2千ほどの遊軍が居て、敵の背後を襲う様な用兵ができれば危険な城なんですが、同規模な山城の岩櫃城などと比べ、駐屯するスペースが乏しく、組織的な反撃が出来ない守りに特化した城と思われます。
 
 滝山城に代わる城を考え始めたのは、おそらく1578年頃からでは無いでしょうか?
この頃の出来事としては、織田信長がいち早く京に入り、朝廷と将軍を押さえた事があります。
次いで武田信玄の死…。
 
 氏照の眼には、織田の天下はもはや現実のものとして捉えられていたのか、この頃から同盟関係を含めて、交流を模索しています。
 
 織田の天下に懐疑的な家中の面々も、北条氏がとても敵わなかった隣りの武田氏がアッと言う間に滅ぼされてしまうのを目の当たりにして、慌てたと思います。
次は北条が狙われる… とても敵わない…』
 
 この認識で一致した氏照は織田の臣下になる事で、広大な領地を守る事を考えますが、信長の返答は芳しいものでなく、信長は北条を潰すつもりではないか…』という不安が増して行きます。
 
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栃木県小山市の祇園城  氏照が下野戦線の拠点として整備し在城しました。
  
 
 この段階で、北条氏としての戦略の転換が図られたんだと思います。
攻め込まれたなら武田の轍は踏まず上手く戦って、最後まで負けない事で和睦に持ち込み、北条家の存続と最低限の領地は確保しよう…。
・諸将が個別に居城に籠って、寝返りや個別玉砕するのを防ぐために、城主
と主力は小田
 原城に集め、小田原だけは守り抜く。
・諸城は最低限の兵で籠城・抵抗し、敵の分散を図ると共に、より多くの城
が生き残りを果
 たし、条件闘争に持ち込む。
・和睦条件として、最低限本拠の相模と父祖の地の伊豆は守る。
 
 以上は完全な憶測ですが、こうした基本方針が一族重臣の中で決められたんだと思います。
この戦略に鑑みて滝山城を見た場合、もともと数万の敵と戦うコンセプトで整備した城ですから、守り切るには最低5千の兵は必要な巨城であり、完全に齟齬が生じます。
 
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八王子城域にある北条氏照と家臣の供養塔  領民に慕われた領主だった様です
  
 
 ここをスタートに企画/実行されたのが八王子城プロジェクトで、妻子が残る居城を少ない人数で守り、攻め難く、勝てないまでも無事に落ち延びて、生命だけは守れる城を…と考えた時、八王子城はその機能性の高さを発揮する様にも思えます。
 
 こうして八王子城が築城され、のちに氏照も居城として移動しますが、北条領の奥深くの事ですから、滝山城もそのまま残され、城代が置かれ並立していた様ですね。
 
 その後、信長の死でいろいろ画策もありますが、結局の変化は織田信長が豊臣秀吉に替わり、1590年の小田原征伐では、氏照は4千の滝山衆(八王子衆)を連れて小田原城に入ります。
残った兵は僅か千名あまりで、すべてが八王子城に籠って、滝山城はやむなく放棄された様です。
 
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滝山城:山の神曲輪の遠景  氏照は雑兵達の“山の神”をちゃんと保護したんですね。
  
 
 最後に“北条五代を大河ドラマに”という幟旗をたくさん見かけました。今回調べてみて、五代を連綿と薄く描くより、氏康の息子達7兄弟の生き様を描いたらどうだろうかと、ふと思いました。
  特に生き残った氏規の目線で描けば、家康や秀吉との接点も多くあり、兄達との別れにもドラマがあります。
厳しい環境下で兄弟それぞれが異なる理想を描き、最後は自分の想う道に進んだ…。
 
  誰も打開策を発信できない重苦しい小田原評定ではなく、異なる意見が激しくぶつかり合う熱い小田原評定であったと思いたいものです。