滝山城の続きです…
 
6.二ノ丸
イメージ 1
 二の丸は滝山城で最大の郭で、すべての登城路が集まる要の郭です。
 
  イメージ 2
二の丸南の堀と土塁  この城で一番大規模な堀で、小田原城に迫る見事さです。
  
 
 武田信玄の攻城に氏照は二の丸で指揮をとったそうですが、この堀を挟んで激しい銃撃戦が繰り広げられたのでしょうね。
 
 
7.大馬出し・南曲輪
 二の丸から南東に伸びる尾根上には郭が配置され、谷間からの攻襲に備えています。
 
イメージ 3
二の丸下の大馬出し   二の丸に取り付いた敵を掃討する兵が待機する場所です
 
  
 大馬出しの下には“南曲輪”と呼ばれる郭がありますが、ほとんど手付かずの様で、藪コギになってしまいました。
 
イメージ 4
南曲輪の下の谷底から見る二の丸方面
 
  
8.小池・大池
 南曲輪の尾根のさらに北側の尾根にも郭が連なり、その間の谷には水の手の池が有った様なので、また藪コギして行って見ます。
 
イメージ 5
大池の堤防跡   今は殆ど埋まってしまってますが、今でも足を取られて歩く事はできません。
  
 イメージ 6
上から見た大池跡  両側に防御の郭が迫り、この谷からの攻撃は無理です。
 
  
9.カゾノ屋敷
 池の谷を北の尾根に上がり、今度は下側の郭から攻め上ります。
 
イメージ 7
尾根の先端はカゾノ屋敷跡で、高い土塁と堀で守られています。
 
  イメージ 8
尾根を下って行く道は良い雰囲気です
 
  
 
10.刑部屋敷・信濃屋敷
その上には、梯郭式に二つの屋敷跡が重なり続きます。
 
イメージ 9
刑部屋敷跡  紅葉が綺麗です

  イメージ 10
信濃屋敷跡 広く平坦な郭です。
 
  
11.中ノ丸・本丸
 馬出しを経て二の丸に戻り、中の丸、そして本丸へと向かいます。
 
イメージ 11
中の丸の広場  場所からして、氏照の常御殿があった所と思われます。
  
 イメージ 12
中の丸からの眺望  多摩川とその向こうは信玄が陣を敷いた拝島
  
 イメージ 13
本丸の広場   奥に長い二段構造で、虎口には引き橋+厳重な枡形が施されている。
  
 
最後に、お馴染みの『余呉さん』の縄張り復元図をお借りして、まとめて見ます。
 
イメージ 14
 丘陵の尾根と谷を巧みに利用した広大な城ですが、二つの時代の構造が同居してるのが一目瞭然ですね。
 北西の山の神曲輪から南西の小宮曲輪にかけて、さらに本丸西側は地形に順じて最小限の土木工事がなされ、小郭がゴチャゴチャと重なる少し古い時代の遺構です。
 中央から南にかけては深い堀と高い土塁が築かれ、各曲輪も平坦で大きく、人工感の強い大規模な土木工事がなされているのが判ります。
 武田信玄に攻められた当時、弱点だった南側から攻められ、三の丸(図の千畳敷あたり?)まで攻め込まれてピンチに陥った… と言われていますが、実査とこの図で見る限り、南側は攻め口は狭い尾根筋しかなく、一気攻めはできません。
 無理に深く長い谷を進んで行けばもう尾根上の郭からの格好の標的です。
運よく谷の奥に辿り着けても、そこは高い壁に阻まれていて、その塁上には沢山の守備兵を配置できるから突破は容易ではありません。
こりゃダメだ!と、そこで迂闊に背を見せれば馬出しからの追討兵に蹂躙され全滅しかねない、とても厄介で強力な縄張りに見えます。
 
 
 ここで再度前編の年表を見て頂きたいのですが。
八王子移転について、『信玄に攻められて落城の危機に瀕し、平城の限界を感じたから…』という解釈が語られる中で、その1569年から1586年までの17年間も、滝山城は氏照の居城として機能し続けています。
 
 もちろんその間は滝山城での攻防戦はなく、実証はされなかったものの、永禄10年に痛感させられた滝山城の弱点はすぐに対策の大改修がなされ、廃城の時点では現在の評価通りの難攻不落の強力な城に生まれ変わったのではないでしょうか。
当然ながら今見てる遺構は最終の形のものですし。
 
 これだけの城に氏照配下の半分の1万の兵を入れて籠城すれば、仮に5万の敵で囲まれたとしても、遠巻きに兵糧が尽きるまで包囲するしか手がありません。
つまり八王子城移転の真相は、滝山城の弱さが原因ではなかったのです。
 
【後編へと続く…】