<続きです>
 
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 *武田氏の存続が難しくなった時、真田昌幸は自領の“岩櫃城”まで一旦退いて、態勢を立て直す様、勝頼に建策しています。
 そうしていれば、周囲はまだ味方で固められ、時間も稼げるし、上杉との協調も容易な状態だったのが版図から判ります。
 しかし勝頼は、織田と北条に囲まれて孤立せざるを得ない“岩殿山城”を敢えて選びました。
 
 
 【上杉内乱 武田勝頼の侵攻】
1578年   3月、上杉の跡目争い“御舘の乱”勃発
      6月、甲相同盟に基き武田勝頼が越後に出兵、窮地に陥った上杉景勝は北信濃の領地
譲渡と上野
       での切り取り自由を条件に勝頼と新たに甲越同盟を結び、窮地を脱し、乱を制す。
       これにより甲相同盟は破綻、勝頼の命で真田昌幸らが上野に侵攻し、沼田城他の北条領を
       次々に奪取して行く。
       この時、北条氏政は下野で佐竹・宇都宮勢と対峙しており、十分な景虎支援が出来なかっ
       た。
       氏政は新たに徳川との同盟を探る。
 
【武田氏が滅亡】
1582年   2月、織田・徳川・北条による武田討伐が開始される。
      3月、勝頼は天目山で自害、武田氏が滅亡する。
      北条氏政はこの機に乗じ、上野に侵攻して、南東部の諸城を手中に収めつつあった。

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【魔王:織田信長の脅威】
1582年 4月、上野国には織田氏の滝川一益が『東国取次』として厩橋城に駐留し、関東支配にあたる。
       一益は本領安堵を打ち出し、穏便に上野の豪族を配下に収め、真田昌幸、小幡
信貞も従っ
       た。
       一益は信長の威光を背景に、北条、佐竹、里見等の大名にも上から目線で優位に接する。
       北条氏政は、占領した上野の領地を一益に返納し、改めて信長配下の一大名と
して関東を
       一括支配したい旨を上奏したが、信長はこれを無視して返答しなかった。
 
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【信長の死で北条の火事場大泥棒】
1582年 6月、本能寺の変で織田信長が横死する。
        北条氏政はすかさず領内に大動員令をかける。
        一益は明智光秀との決戦の意志を固め、上野の諸将に伝達する。   
        北条軍が6万の大軍で北上する、滝川一益は神流川で迎え討ち、緒戦は戦いを優位に進める
       も、後詰めする筈の北条高広はじめ上野の諸豪族が動かず敗れる。
          一益は上野を棄て、本領の伊勢帰還を決める。
        
         北条勢は空白になった上野の平定を進める一方、一益を追う形で信濃に大きく
侵攻し、北
       信濃の真田、諏訪、木曽氏などを服従させ、領地を大きく拡大する。
       これに対し甲斐から侵攻して来た徳川家康は真田昌幸を調略し、北条と対峙する(天正壬
       午の乱)が、すぐに膠着し、和睦する。
 
【沼田領争奪の激しい攻防】
1583年    家康との和睦の条件で、北条が信濃撤兵の代わりに、上野北部の沼田領は北条
氏への帰属
       が約されたが、 沼田を領有する真田昌幸がこれに反発し、北条・徳川を相手に徹底抗戦の
       構えを取る。
 
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1584年    織田家中の後継者が羽柴秀吉で落ち着くと、上杉景勝がまず臣従を求め、反北条勢力の佐
       竹、宇都宮氏などもこれに倣う。
       徳川・北条と独力で対峙していた真田昌幸は上杉との同盟に活路を求め、秀吉
傘下に入
       る。
 
1585年    西では秀吉と家康の抗争が続く中、北条氏政は下野と常陸へ侵攻し、両国の南分を手中
       に収める。
        徳川勢が7千で真田の本拠:上田城を攻めるも、惨敗を喫して退却する。
 
【秀吉調停の罠】
1588年   秀吉が北条氏政に上洛を催促するも、氏政は拒否。 この時は家康のとりなしで納まる。
 
1589年     北条家臣の板部岡江雪斎が上洛し秀吉に真田氏との沼田問題の調停を依頼。
        秀吉は沼田領を分割する案と氏政の上洛を条件とする“沼田裁定”を命じる。
             
     7月、裁定に従い沼田領の2/3が北条氏に引き渡されたが、氏政は上洛を渋って動か
ず。 
      
      10月、北条氏の猪俣邦憲が真田氏の名胡桃城を奪取する“名胡桃事件”が勃発。
         秀吉はすぐに主だった諸将を集め、来春の北条討伐を指示する。
 
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*北条氏の当初の夢は関東の覇者となり大勢力として君臨する事でした。
これを描いたのは早雲か氏綱の動乱の時期でしょうが、氏康、氏政、氏直もここを踏み出す思考はありません。
武田が滅び、運よく夢は実現したかに見えますが、その後を見越して次に踏み出さない限り、そうした大勢力に明日は無い事をすぐに思い知らされます。
徳川家康はそれを良く見ていました。
 
 
【北条氏滅亡 領地は徳川家康へ】
1590年 1月、氏政は配下の諸将に小田原参陣を命じ、抗戦の構えを取る。

    3月、豊臣軍22万が東海道、中山道と海上から北条領に侵攻、上野へは前田、上杉、真田等の3
       万5千が碓氷峠を越えて侵攻した。      
                戦力の大半を小田原籠城に持って行かれた上野の諸城はもぬけの殻同然であり、大規模な
       抵抗ができぬまま、4月中にはほぼ全てが降伏開城する。
 
     8月、北条氏政は小田原の降伏開城を決め、北条氏は実質滅亡する。   
             
      9月、北条の旧領には徳川家康が移封される 。
       上野では、箕輪に井伊直政、館林に榊原康政など重要な城には重臣を配し、家康直轄領の
       南部には有能な代官を置いて治めた。
       北条に譲渡されていた沼田領は真田領として還付された。