関東の城探訪  群馬県 国峯城  登城日2014.11.08
 
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   城郭構造       山城
 天守構造       なし
 築城主         小幡氏
 築城年        文明年間?
 廃城年        1590年
 遺構          曲輪、土塁、堀切、竪堀
 指定文化財     町史跡
 所在地        群馬県甘楽郡甘楽町大字国峰字城山

 
 上州城めぐりの最後を飾るのは、小幡信貞の拠城:国峯城です。
戦国末期には周辺の大勢力に踏み荒らされた上州ですが、上州の国人の中にも強豪に果敢に立ち向かい、気概を示した国人は何人も居ました。
  西上野衆を束ね信玄を寄せ付けなかった長野業正、戦国武将らしく下剋上で主家を奪い、武力で周辺を伐り従えようとした由良国繁、そしてこの国峯城の小幡憲重・信貞父子などがその代表です。
 
 小幡信貞…、一般にはあまりパッとしない名前かとは思いますが、戦国オタクワールドに武田信玄から入った私にとって、小幡信貞という武将は武田麾下最大の兵力を持ち、24将の一人として昔から馴染みのある名前なので、敢えてトリに持って来ました。
 信実、信真、信貞、信定… 主君が変わる度に名前を変えた信貞ですが、ややこしいのでここは一番馴染みのある信貞で統一しますね。
 
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武田24将図に描かれる小幡信貞
武田軍団の中心的な戦力で、赤い甲冑で統一した“上州小幡の赤備え”は敵には脅威の象徴でした。
上総守とありますが上総介が本当です。
*親王の直轄領だった上総には国司の職位はありません
 
 
 小幡氏のルーツは平安末期、武蔵七党のひとつ児玉党の一族である秩父行頼が甘楽郡の郡司として小幡を領し、小幡氏を名乗ったのが最初だそうです。
 その後の小幡氏は鎌倉時代の記録から消えるのですが、足利幕府が成立する過程では、足利家執事の高師直の配下で活躍しています。
 足利体制の中では、山内上杉氏の被官として、上野に在していた様で、父:小幡憲重の頃には白井や総社、足利の長尾氏、箕輪の長野氏とともに山内上杉氏の宿老のひとりに数えられる実力者になっています。
国峯城はたぶんこの頃までには整備されていたんでしょうね。
 
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国峯城復元図
甘楽町の歴史資料館が製作展示しています。城郭だけでなく平地の城下を守る堀・土塁(左下)もあり、十分な兵力を持っていた事がわかります。
  
 
 信貞は長野業正の長女を娶り、両家協力して上杉憲房・憲政を支えていま
したが、北条氏康に惨敗した河越夜戦あたりから戦略をめぐって関係がおかしくなり、小幡氏は北条方に寝返って、氏康による平井城攻めには北条勢の先鋒を務めました。
 
 これに怒った長野業正は、憲重・信貞父子が草津に逗留中を見計らって国峯城を乗っ取ってしまいます。
帰る城を無くした小幡父子は、そのまま武田領に入り、佐久に滞陣していた信玄の庇護を受けました。
 
 永禄4年の川中島の戦が終わると信玄は、上野侵攻の拠点としての国峯城奪還作戦を決行して、取り戻した国峯城に小幡信貞を戻し、上野攻略の尖兵とします。
 恩義に報いる信貞の活躍があり、2年後には多野・甘楽郡は信玄の支配する所となります。
 ちょうどその頃、長野業正も他界した事で、3年を待たずして長野氏は滅亡し、西上野は武田領となります。
 
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甘楽町の資料館はレンガ造りの洒落た建物です
窓口のお姉さん(元)も親切ですよ
 
  
*この後、小幡信貞は信玄から
 『その方の妻は業正の娘だそうだな、早々に離縁して武田一族の者を娶
 り、一族に連なる様に!』と言われます。
これに対し信貞は
 業正健在の頃の命なら喜んで従いまするが、長野の家が滅んだ今、身寄 りとて無い弱者をどうして棄てられましょうや? お屋形様への忠節なら ば戦場にて十分に証して見せまする』
とキッパリ断わったそうです。
 これに感じ入った信玄は、信貞への信頼を一層深くしました。
 
 武田麾下で上野を束ねる先方衆となった小幡氏は、騎馬500(注)を擁する武田家最大勢力として、以後の武田の戦いを転戦します。
三増峠、三方ヶ原、長篠…と“小幡の赤備え”は常に戦場の中心にありました。
 
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“七五三の笹軍配” 独創的な紋所ですね
  
(注)…武田の軍編成では通常、騎馬ひとりに歩兵が4人付きます。
  騎馬500なら2,500人の兵力という事です。
  これは信玄から命じられている動員基準ですから、留守居の兵も必要で、総兵力は
  3,500~4,000になり、15万石以上の石高に相当します。
  武田の武将単独での兵力としては、高坂昌信350騎、勝沼信友280騎、小山田信茂
  250騎、山県昌景250騎、武田勝頼200騎、真田信綱200騎…と続きます。
 
 長篠で大敗した武田家にあって、小幡隊もまた大きな損害を被りました。
この時に憲重が戦死したとも言われます。
 国峯城に戻った信貞は、軍事の再編に腐心する傍ら、真田昌幸とともに上野戦線を担当していました。
 
 そんな折に、武田領は西から織田・徳川勢の侵攻を受け、西信濃の重鎮:木曽義昌の裏切りが裏切りの連鎖を生み、武田氏はあっけなく滅亡してしまいます。
 
 少し前、勝頼はじめ武田の重臣の間では、去就の怪しい木曽義昌を配置替えして、信頼できる小幡信貞に信濃を任せよう…という議論もされていた様ですが、もうアフター・ザ・フェスティバルです。
 
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江戸時代は織田氏
(信雄系)の城下だった小幡(甘楽町)は雰囲気のある町並みです
  
 
 国峯城に籠った信貞の元には、ほどなく織田家への帰属を奨める信忠の使者が訪れ、服属を決めた信貞は、関東取次:滝川一益の配下に入ります。
 
 その僅か3ヶ月後、織田信長は本能寺に憤死し、滝川一益も北条氏政に攻められて上野を去ります。
 残された信貞はじめ上野の国人衆は、仕方なく北条氏に服属する事で難を逃れました。
 
 天正18年の北条征伐では信貞も小田原城に籠城し、国峯城は上杉景勝の配下の藤田信吉に攻略されて開城し、そのまま廃城となりました。
 戦後、所領を失った信貞は失意のうちに上野を去り、旧知の真田昌幸の許に身を寄せて、2年後に信州上田で52年の生涯を閉じました。
 
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長野県上田市にあるという信貞の墓
真田氏とは父の代から昵懇で、真田幸隆も武田氏にほぼ同時に服属しました。
 
  
 小幡氏の旧臣の多くは、その後に入って来た徳川家重臣:井伊直政に雇用され、その後の徳川最強軍団“井伊の赤備え”編成の核になったそうです。