関東の城探訪 群馬県 館林城 登城日2014.10.26

城郭構造 梯郭連郭複合式平城
天守構造 なし
築城主 赤井照光
築城年 15世紀
主な城主 榊原康政
廃城年 1874年
遺構 曲輪、土塁、復元門
指定文化財 なし
所在地 群馬県館林市城町3
天守構造 なし
築城主 赤井照光
築城年 15世紀
主な城主 榊原康政
廃城年 1874年
遺構 曲輪、土塁、復元門
指定文化財 なし
所在地 群馬県館林市城町3
群馬の城址を辿る旅も、東の端にやって来ました。
本日の最後は館林城です。
本日の最後は館林城です。
この地域では唯一、江戸時代に生き残った城で、特にその初期には、主要な譜代から親藩~御一門が封じられ、格式の高い城として存在しました。
館林城の最初は15世紀の中ごろにこの地(佐貫郡)を治めた赤井氏によるとされ、当初は立林城と呼ばれていました。
永禄5年(1562)、上杉謙信が侵攻して来ると赤井氏は滅亡し、館林城は山内上杉家の被官だった足利長尾家に与えられます。
武田信玄の上野侵攻が本格化して、抵抗していた長野氏も滅びると、当主の長尾当長は対抗上、越山できなくなった上杉謙信に替わり、北条氏に服属して対抗します。
が、その後に相越同盟の締結に尽力し、実現して筋目を立てています。
下剋上の世にあって、上杉・長尾系の律儀さは異彩を放っていますね。
が、その後に相越同盟の締結に尽力し、実現して筋目を立てています。
下剋上の世にあって、上杉・長尾系の律儀さは異彩を放っていますね。

車場はほぼ満杯でも… 紅葉が始まっています
天正13年(1585)、当主の長尾顕長と金山城主:由良国繁が揃って北条の小田原城に監禁され、両城が北条の大軍に囲まれて服属を迫られる事件がありました。
由良国繁は屈して服属しますが、長尾顕長は頑として拒み通し、結局は館林城から退去して明け渡す事になりました。
北条氏の持ち城となった館林城は、氏政の弟の氏規に与えられ、城代が入って治めました。
由良国繁は屈して服属しますが、長尾顕長は頑として拒み通し、結局は館林城から退去して明け渡す事になりました。
北条氏の持ち城となった館林城は、氏政の弟の氏規に与えられ、城代が入って治めました。
天正18年(1590)も城代・南条因幡守が守っていましたが、石田三成の軍勢に囲まれ、降伏開城しています。
同年、徳川家康が入封してくると館林城は四天王のひとり榊原康政に10万石で与えられ、榊原家が白河に去ると、浜松から老中:松平乗寿(大給)が6万石で入り、松平家の後のは25万石の大封で4代将軍:家綱の弟の綱吉が入り、6代将軍を継ぐまで館林で過ごしました。
その後は越智松平家が5代と、譜代の太田家、井上家、秋元家が各2代つないで明治を迎えます。

市役所入り口の城址碑 遺構は何もありません
館林城を歩く
大泉から館林はほぼ一本道で、30分ほどで到着します。
市役所南の駐車場にクルマを停めて、さっそく辺りを散策して廻ります。
館林城は忍城や岩付城と同様の水城でした。
徳川綱吉が25万石で居た最盛期の復元図がよく描かれていますが、城沼に北からせり出す様に、六つの郭が独立した島の様に浮かび、それぞれが橋で繋がっています。
徳川綱吉が25万石で居た最盛期の復元図がよく描かれていますが、城沼に北からせり出す様に、六つの郭が独立した島の様に浮かび、それぞれが橋で繋がっています。
北の陸地には堀に囲まれた屋敷町があり、西側には外堀に囲まれた城下町もあります。
戦国時代の城はそんな大規模なものでは無いでしょうが、現在は城沼も大半が埋め立てられ、郭間の堀も郭の土塁を崩して埋められ、殆ど更地にした上で、市の庁舎や公園と化しています。
これだけ痕跡を消す様に改変され、当時の面影を失ってしまう城って珍しいでしょうね。
戦国時代の城はそんな大規模なものでは無いでしょうが、現在は城沼も大半が埋め立てられ、郭間の堀も郭の土塁を崩して埋められ、殆ど更地にした上で、市の庁舎や公園と化しています。
これだけ痕跡を消す様に改変され、当時の面影を失ってしまう城って珍しいでしょうね。

門内に枡形を持つ土橋門 唯一の復元建物ですが、あまり見ない形式です
それでも僅かな面影を探して歩いて見ます。
駐車場の北側、ちょうど市役所の入口あたりが地図上では“館林城址”となっている場所ですが、確かにその標柱はありますが、他は何もありません。
たぶん三ノ丸の南側の土塁の位置ですが、若干の土の盛り上がりが残る程度です。
たぶん三ノ丸の南側の土塁の位置ですが、若干の土の盛り上がりが残る程度です。
同じ敷地の文化会館の北側に、城下からの城門だった“土橋門”が残っていました。
復元ですがそこそこ立派な門で、内側に土塁で枡形が造られていろ形式はとても珍しいですね。
復元ですがそこそこ立派な門で、内側に土塁で枡形が造られていろ形式はとても珍しいですね。

二ノ丸跡の広場と本丸南土塁 本丸内はもう建物が占拠
三ノ丸には他に何も無いので、二ノ丸方向に歩いて行きます。
二ノ丸は主には重臣屋敷でしたが、今はきれいさっぱり一面のだだっ広い芝生広場です。
江戸城の大名小路(皇居前広場)みたいなもんで、屋敷を壊すだけでこんな広場が生まれるんですね。
二ノ丸は主には重臣屋敷でしたが、今はきれいさっぱり一面のだだっ広い芝生広場です。
江戸城の大名小路(皇居前広場)みたいなもんで、屋敷を壊すだけでこんな広場が生まれるんですね。
広場の遥か向こうに土塁と一部石垣が見えますが、本丸の南側の土塁で、館林城の遺構としては一番良く残ってる部分です。
本丸跡地には今は『向井千秋記念館』と『田山花袋文学館』が建っていますが、他を空き地にしても館林城本丸跡を敢えて使うとは… 自治体のスタンスが良く判りますねw
本丸跡地には今は『向井千秋記念館』と『田山花袋文学館』が建っていますが、他を空き地にしても館林城本丸跡を敢えて使うとは… 自治体のスタンスが良く判りますねw

八幡曲輪跡の微妙な空間
本丸跡を土塁を見ながら東に抜けると八幡社があり、八幡曲輪だった場所です。
隣りに森に隔絶された微妙な空間があり、心が落着く様な、少し不気味な様な変な感覚になっつぃまいましたが、ここが本来は城の東端で、ここからは城沼が広がっていた筈です。
今はもう少し埋め立てられ、花菖蒲園になっていまが…。
隣りに森に隔絶された微妙な空間があり、心が落着く様な、少し不気味な様な変な感覚になっつぃまいましたが、ここが本来は城の東端で、ここからは城沼が広がっていた筈です。
今はもう少し埋め立てられ、花菖蒲園になっていまが…。
森を抜けて花菖蒲園に入ったら急に視界が開け、城沼の姿が見えました。
南から埋立地が迫って、細長い蓮沼があるだけですが、そこから見えた景色の両端を大きくトリミングした狭い景色こそ、イメージしてた館林城の風景でした。(冒頭の写真)
南から埋立地が迫って、細長い蓮沼があるだけですが、そこから見えた景色の両端を大きくトリミングした狭い景色こそ、イメージしてた館林城の風景でした。(冒頭の写真)

田山花袋旧宅 城にこだわらねば、見るべき物もあります
江戸時代を通して生き抜いた城址が、今に残るか残らないかは、領主と領民の関係が大きいと思います。
“犬公方”徳川綱吉はドラマや小説を通じてあまり良いイメージじゃないし、最後の藩主:秋元氏も幕府の要職にありながら、戊辰戦争では新政府軍に加担してるし…。
城に罪は無いけど、館林の人達にとってこの城は、ひょっとしたら“負の遺産”の要素が大きかったのかも知れませんね。
城に罪は無いけど、館林の人達にとってこの城は、ひょっとしたら“負の遺産”の要素が大きかったのかも知れませんね。