関東の城探訪 群馬県 桐生城 登城日2014.10.26

城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 桐生国綱
築城年 1350年
主な城主 桐生氏、由良氏
廃城年 1590年
遺構 曲輪
指定文化財 なし
所在地 群馬県桐生市梅田
天守構造 なし
築城主 桐生国綱
築城年 1350年
主な城主 桐生氏、由良氏
廃城年 1590年
遺構 曲輪
指定文化財 なし
所在地 群馬県桐生市梅田
次は桐生市の名前の元になった桐生氏の拠城:桐生城です。
別名を柄杓山(ひしゃくやま)城とも言い、地元ではこっちの方が一般的なのかな。
別名を柄杓山(ひしゃくやま)城とも言い、地元ではこっちの方が一般的なのかな。
桐生氏は藤原秀郷を祖とする藤姓足利系佐野氏の一族と言われてますが、その存在や動向などの裏付けは中世の軍記ものにしかなく、近代の偉い先生方の研究では、とてもデリケートな氏族なんだそうです。
ただ、佐野氏に近い氏族なのは確かな様ですね。
ただ、佐野氏に近い氏族なのは確かな様ですね。
南北朝の頃から、桐生氏は周辺の小豪族を統合しながらこの地に根を張り、古河公方の与党として一大勢力を築きますが、由良氏が北条氏に寝返った頃から由良氏との抗争が続き、 元亀4年(1573)に桐生城を攻め落とされ、本家の佐野に逃れます。
その後奪回を試みるも、桐生の地に協力する者なく、奪回を断念して失意のうちに亡くなり、桐生氏は滅亡しました。
その後の桐生城は由良氏の属城で戦国末期の戦乱を過ごし、由良国繁は自らの隠居城としても使った様ですが、1590年、北条氏の滅亡と共に廃城になりました。
その後の桐生城は由良氏の属城で戦国末期の戦乱を過ごし、由良国繁は自らの隠居城としても使った様ですが、1590年、北条氏の滅亡と共に廃城になりました。

駐車場にある案内図
桐生城を歩く
大間々から渡良瀬川東岸を下って行くと、10分ほどで桐生の町に入ります。
桐生駅前のキレイなシャッター商店街を抜け、本町5丁目の交差点を左折し、山に向かって真っすぐ向かいます。
大間々から渡良瀬川東岸を下って行くと、10分ほどで桐生の町に入ります。
桐生駅前のキレイなシャッター商店街を抜け、本町5丁目の交差点を左折し、山に向かって真っすぐ向かいます。
谷間がだんだん細くなり、民家も途切れかけた所にある“コジマ電機”まで行くと、反対の左手に“如何にも”な城山が見えて来ます。 こちらは正真正銘『城山』らしいです。
道はすぐに桐生川の川沿いに出て、綺麗な桜並木がありますが、並木が終わる所に入口があります。 看板は『桐生柄杓山城址入口』。
左折して入り、ここからは林道をガンガン登って行きます。
林道だけど舗装路なので、そう苦にはならず、遺構など確認しながらゆっくり登って行けば、5分くらいで八合目の駐車場に着き、そこからは歩きになります。
左折して入り、ここからは林道をガンガン登って行きます。
林道だけど舗装路なので、そう苦にはならず、遺構など確認しながらゆっくり登って行けば、5分くらいで八合目の駐車場に着き、そこからは歩きになります。

本丸土塁? いえ、違いますw
たぶんここも貸切りなんだろうな
…と思って駐車場に着いたらビックリ!!!
パトカーなどの警察車両が何台も居て、たくさんの警官が棒を持って草叢で何やら捜しています…。
ニュース映像でよく見る、遺体捜索現場のアレです。
…と思って駐車場に着いたらビックリ!!!
パトカーなどの警察車両が何台も居て、たくさんの警官が棒を持って草叢で何やら捜しています…。
ニュース映像でよく見る、遺体捜索現場のアレです。
仕方ないから窓をあけて、ポリさんに『今日は停めれない?』と尋ねたら、『あっ、奥の方なら大丈夫ですよ』という返事なので、ゆっくり奥に進んで停めます。
幸い職質もされず、『自分が思うほど悪人顔でもないのかな…』とか考えながら、そそくさと登山靴に履き替え、逃げる様に現場を離れますw
幸い職質もされず、『自分が思うほど悪人顔でもないのかな…』とか考えながら、そそくさと登山靴に履き替え、逃げる様に現場を離れますw
いろいろ歩き回ってると、こんな場面に出会う事もあるんですね。
駐車場から林道の舗装路をしばらく歩くと、左手から城址への遊歩道が始まります。
道は少し登ると檜の森に入り、森林浴が始まりますが、この時ばかりは誰かが枝にぶら下がってないか、上も見ながら進んで行きます。
道は少し登ると檜の森に入り、森林浴が始まりますが、この時ばかりは誰かが枝にぶら下がってないか、上も見ながら進んで行きます。

本丸と二ノ丸間の堀切
この城は山の尾根を堀で断ち切って、幾つかの郭が連続する“連郭式”の様ですね。
前回の松井田城もそうでしたが、群馬県は林業も盛んな様で、ここの檜も上の方まで枝打ちされ、よく手入れされています。
前回の松井田城もそうでしたが、群馬県は林業も盛んな様で、ここの檜も上の方まで枝打ちされ、よく手入れされています。
けど、10㎝ほどの間伐材は倒されたまま放置されていて、何とも勿体ない事です。
遊歩道は堀切の底の高さで郭の横を縫って走り、先端の本丸で郭上に登って行きます。
本丸は15m×40mほどの細長い郭で、ほぼフラットな広場になっています。
本丸は15m×40mほどの細長い郭で、ほぼフラットな広場になっています。
本丸だけは檜の植林もなく、雑木も伐採されて明るくなっていますが、その替わりというか桜の木が植えられていて、下界の見通しは決して良くはありません。
コンセプトはハイキング+花見の公園かな?
ここには珍しくハイキングの先客が居て、殆ど入れ替わる様に熊鈴を鳴らしながら降りて行きました。
コンセプトはハイキング+花見の公園かな?
ここには珍しくハイキングの先客が居て、殆ど入れ替わる様に熊鈴を鳴らしながら降りて行きました。

本丸は明るいけど、見通しは利きません
改めて下界を見下ろしながら、この城の成り立ち・用途を思い描いて見ました。
郭の規模からして、ここは明らかに詰め城ですね。
麓の清雲寺が居館の跡らしいので、普段はそこに起居して、この桐生の谷を中心に、北の川内の郷と南の足利に近いエリアまで支配していたのかな?
郭の規模からして、ここは明らかに詰め城ですね。
麓の清雲寺が居館の跡らしいので、普段はそこに起居して、この桐生の谷を中心に、北の川内の郷と南の足利に近いエリアまで支配していたのかな?
桐生氏が佐野氏の一族だから、連携して北条氏や由良氏の脅威に対処してたのでしょうが、大きな勢力に攻め込まれた時の為に、この城を造ったという事ですね。
桐生の谷を遡ると、200mほどの比交差の老越路峠を越えて、割と簡単に佐野に出ます。
当主が桐生親綱の1572年、家中の内紛を衝かれ由良成繁に攻められた桐生城は落城し、親綱は佐野に逃れたといいます。
恐らく、この城に籠る間もなく佐野に向かったのではないかなぁ?
当主が桐生親綱の1572年、家中の内紛を衝かれ由良成繁に攻められた桐生城は落城し、親綱は佐野に逃れたといいます。
恐らく、この城に籠る間もなく佐野に向かったのではないかなぁ?

城山遠景
上の方の色の違う木は桜です 満開の時はピンクの帽子ですねw