関東の城探訪    群馬県  高津戸城    登城日2014.10.26
 
イメージ 1
 
 
 城郭構造      山城
 天守構造      なし
 築城主     山田七郎平吉之
 築城年     寛治2年(1088年)
 主な城主    山田氏。仁田山里見氏、由良氏、阿久沢氏
 廃城年       1590年
 遺構      土塁,郭,堀
 指定文化財       なし
 所在地     群馬県みどり市大間々町高津戸(高津戸公園)
 
 
 次は渡良瀬渓谷の入口まで下り、大間々にある高津戸城を訪ねます。
 
 築城は寛治2年(1088年)山田七郎平吉之とあり、古い歴史を持つ城ですが、山田氏はその後の南北朝の争乱で南に隣接する桐生氏に滅ぼされ、城は一旦廃城になります。
 
イメージ 7
ハイキングコースの展望台
  
 桐生氏当主:国綱は山田氏の旧領の仁田山城に娘婿の里見氏連を迎えて住まわせ、氏連は仁田山里見氏を名乗ります。
 
 天正2年(1574年)頃、安房の里見実堯が一時期、仁田山里見氏に身を寄せていた…という話もありますが、これはかなり怪しいですね。
ただ、高津戸城が復活するのは、天正5年(1577年)里見氏一族の里見勝政・勝安兄弟が上杉謙信の庇護のもと、城を改修して住んだ時の様です。
 
 その後、高津戸城は由良氏に攻め落とされ、由良氏の属城となりますが、由良氏は武田氏の側に付いた事から北条氏に取り上げられ、北条氏政は高津戸城を深沢城の阿久沢氏に管理させたそうです。
天正18年(1590)、小田原開城とともに廃城になりました。

 

イメージ 6
神社の参道が大手道なので、登りやすい
  
 
 
 
 
 高津戸城を歩く
 深沢城から国道に戻って、下流に向かいます。
『メリージェーン』を口ずさみながら10分も走れば、もう大間々の町に入ります。
 
 川沿いに続いてた左手の山並みはだんだん低くなり、最後はボコンと鍋型の山があって平地になります。 城好きならピンと来る、いかにも城がありそうな山だからすぐに判りますよw
 大間々3丁目の交差点で左折し、県道338に入れば、城山はもう目の前。 
 
 川の手前に『見晴らし公園』なるものが有り、川越しの良いショットを狙えそうですが、この日は『菊人形展』で賑わっていて、とても入れそうにないので、諦めて渡良瀬川の橋を渡ります。
 
 橋から400mほど走ると『老人ホーム:高津戸荘』の看板があるので左折して入って行きます。
 城山を左手に見ながら、300m走ると三叉路になるので、左側に下る感じで入ります。
看板は『要害山・要害神社』。
城山ではなく、要害山って呼ぶんですね。
 
 そこからは道なりにグイグイ登って行けば、すぐに駐車場です。
水洗トイレと展望デッキもあります。
 
イメージ 5
駐車場と展望デッキ
中腹はかなり整備されている
 
  デッキに登って地形をしばし観察。
嶮しい山を背にして関東平野を広く見渡せる絶妙な立地ですが、平地に出るには峡谷になった渡良瀬川を渡らねばならず、支配の拠点としての城には成り得ません。
 守りの城だから、あまり大規模にならず、名前も知れ渡らなかった…という事かな。
 
 案内看板によると、要害神社は高津戸城本丸跡に建っている様で、こうゆう城は参道を行けばかなり楽に登れる筈です。
さっそく登り始めますが、町に近くて眺めも良く、ハイキングコースにもなってるので、久々に人とすれ違いますw
 
イメージ 4
腰曲輪から見る本郭 土塁は2mほど 
  
 城址自体は樹林の中に隠れているのですが、三ノ丸にあたる駐車場からは参道(大手道)脇に小郭が幾重にも重なっていて、防御力はそこそこ有りそうです。
 10分も登るともう山上です。
広めの腰曲輪がグルリ巻いていて、中央に本丸の郭が座るタイプの構造です。
 
 本丸の広さは30m四方ほどの平地ですが、土塁はありません。
中央に要害神社の社殿が鎮座していますが、普通に立派な建物なのに、かなり荒れています。
時代劇で盗賊のアジトに使われてそうな、そんな感じw
 
イメージ 3
神社の建物もかなり荒れてます
  
 神主さんが居ないのはもとより、ここしばらく祭礼などは行われていないのかも…。
境内も雑草というか、一面草地で、それをイノシシが堀返していて、惨憺たるものです。
 
 みどり市も中腹に木道を整備したりして、遺跡の保存に知恵を使ってる様ですが、もう少し樹木を減らして、風と日光を通して、景観の良い居心地の良い場所にすれば、人の集まりもかなり良くなるという気がします。

 

イメージ 2
展望台からは宿敵“由良氏”の金山城が見えます