群馬の集中城めぐりも4回目です。
今回は最後の“東毛地域”を巡って来ました。
今回は最後の“東毛地域”を巡って来ました。
上野の東部だから『東毛』なんだけど、県外の人はなんで“毛”なんだろか?…と不思議に思いません? 私は不思議で堪らなかったので、調べてみましたw。
遠く卑弥呼の時代、この関東北部には毛野(けぬ)と呼ばれる豪族が居て、毛野の国と呼ばれていたそうです。
その後の律令制度の中で、広い地域は上下に分けられ、都に近い西半分は上毛野国(かみつけぬくに)と呼ばれます。
その後の律令制度の中で、広い地域は上下に分けられ、都に近い西半分は上毛野国(かみつけぬくに)と呼ばれます。
しかし、後に“国名は二文字にすべし”との政令が出て、上野国と標記する事にしましたが、“毛野”に対する愛着なのか、読みの中で『こうずけのくに』とし、毛に対するコダワリをしっかり残して、今に至ります。
そうすると、西毛の碓井郡なんてとんでもない地名なんですねw
そうすると、西毛の碓井郡なんてとんでもない地名なんですねw
しかし、上毛があれば東には下毛もある訳で、『なんだっぺ!?』という声が聞こえて来そうなので、この話題はこれにておしまいw
関東の城探訪 群馬県 深沢城 登城日2014.10.26

渡良瀬渓谷の朝 見るからに爽やかw
城郭構造 崖端山城
天守構造 なし
築城主 阿久沢氏
築城年 1570年頃?
主な城主 阿久沢氏
廃城年 1590年
遺構 土塁,郭,堀
指定文化財 なし
所在地 群馬県桐生市黒保根町宿廻
天守構造 なし
築城主 阿久沢氏
築城年 1570年頃?
主な城主 阿久沢氏
廃城年 1590年
遺構 土塁,郭,堀
指定文化財 なし
所在地 群馬県桐生市黒保根町宿廻
関東平野の北端を流れる渡良瀬川は、桐生より上流は日光連山の深い谷間に入り、足尾へと繋がります。
この渡良瀬渓谷を根拠としたのは阿久沢氏と言い、その歴史はかなり古くて、平安時代の“前九年の役”後に、八幡太郎源義家が奥州から連れ帰った蝦夷の一党をこの里に住まわせたが始まりと言われます。
以後、その子孫は黒川衆と呼ばれ、永くこの谷を支配していました。
狭隘な谷間で農業生産力は多くはありませんが、銅や錫などの鉱物の採れる貴重な土地であり、そうした金属技術に精通した一党を“使える人材”として連れて来たという事でしょうか…。
狭隘な谷間で農業生産力は多くはありませんが、銅や錫などの鉱物の採れる貴重な土地であり、そうした金属技術に精通した一党を“使える人材”として連れて来たという事でしょうか…。
また、戦国後期の上州争乱の中で、沼田と桐生を結ぶ間道があったので、上杉、真田、北条の諸氏がせめぎ合う争奪の地となりました。
その阿久沢氏の本拠が深沢城です。

深沢城の脇から沼田へと続く間道 守りの堅い沼田街道を避けて、上杉謙信が、北条氏邦が行き来し、阿久沢氏はその都度道案内をしたそうです
築城は永禄年間(1558~70年)の頃と言われてる様ですが、阿久沢氏はこの黒川郷を代表する有力な郷士なので、居館は以前からこの地にあり、戦乱の到来に合わせて補強したのがこの時期だったのだと思われます。
阿久沢氏は天正2年(1574)上杉謙信の求めに応じて、沼田からの侵攻を助けますが、以後は北条氏に近いスタンスでこの地の戦乱に対処して行きます。
天正18年(1590)も小田原に籠城して開城降伏を迎え、深沢城も廃城となりました。
阿久沢氏はこの地に帰農し、現代に至っています。
天正18年(1590)も小田原に籠城して開城降伏を迎え、深沢城も廃城となりました。
阿久沢氏はこの地に帰農し、現代に至っています。

深沢城址に建つ正圓寺 物見櫓風の建物がイイ感じです
深沢城を歩く
深沢城への目印は正圓寺です。
地域では有名な寺らしく、どの地図にもデカデカと載ってますし、この寺の境内が即ち深沢城の城址なのです。
地域では有名な寺らしく、どの地図にもデカデカと載ってますし、この寺の境内が即ち深沢城の城址なのです。
“東国文化歴史街道”(R122)を渓谷沿いに進んで行き、渓谷鉄道の『本宿駅』を過ぎてすぐの『宿廻』の信号を左後方に“グリッ!”と廻って入って行きます。
この辺りは地名の通り、街道の宿場 兼 城の根小屋だった様なので、それらしい遺構も見られますから、クルマを低速でゆっくり進めます。
道路が西の谷に添った登り坂になると、土塁遺構も現れだして、観音堂の標識がある辺りは石垣も積まれています。
道路が西の谷に添った登り坂になると、土塁遺構も現れだして、観音堂の標識がある辺りは石垣も積まれています。

道路脇にある観音堂の石垣 登城と呼ばれるエリアで、城の大手口はこの辺りでした
さらに登って、登り切った所がT字路になっていて、これを右に曲がるとすぐ正圓寺です。
道の右側に参拝者用の広い駐車場もあるので、ここに停めさせてもらいます。
道の右側に参拝者用の広い駐車場もあるので、ここに停めさせてもらいます。
駐車場の下隣りが本丸跡で、予想外にというか、ほぼ完全な形で郭の土塁と空堀が残っています。
70m四方ほどの方形の平坦な郭で、城の本丸というより、御殿があった居館跡の方が正しい姿かも知れません。
70m四方ほどの方形の平坦な郭で、城の本丸というより、御殿があった居館跡の方が正しい姿かも知れません。

目の前に広がる本丸土塁 広いです。そして良く残っています
かつて、赤城山東麓を越えて沼田に侵攻する北条勢や、越えて来た上杉勢などをこの館に迎えて、労をねぎらい歓待してたのでしょうかね。
この本丸を守る様に東から北にグルリと二ノ丸があり、間の空堀は南に回ると腰曲輪になって、土塁を隔てて急斜面で南へ落ちて行きます。
この本丸を守る様に東から北にグルリと二ノ丸があり、間の空堀は南に回ると腰曲輪になって、土塁を隔てて急斜面で南へ落ちて行きます。
本丸西側は登って来た谷川に向かって高い急斜面になっており、案内図では防御の小郭が重なっている様ですが、この辺は藪の中でハッキリとは判りません。

二ノ丸から観た本丸と間の空堀 幅が凄いですねw 割と浅いけど、向こうに見える腰曲輪からは不自然に盛り上がってるから、本丸に積み上がってた土塁を崩して埋めたのかも。
本丸北側は二ノ丸内にある“正圓寺”を取り囲む様に、空堀が走っていて、北面からの侵入に備えています。
実はこの空堀、雑草に覆われているとはいえ、キレイに残っています。
辺りは正圓寺を中心に集落になっていて、民家と畑地が入り混じるのですが、城の遺構は乱開発に侵される事なく保全されているのにはビックリです。
実はこの空堀、雑草に覆われているとはいえ、キレイに残っています。
辺りは正圓寺を中心に集落になっていて、民家と畑地が入り混じるのですが、城の遺構は乱開発に侵される事なく保全されているのにはビックリです。
都市化の影響を受けにくい田舎なのもありますが、阿久沢氏に所縁のある住民の方々が、その菩提寺の正圓寺とともに深沢城址を“侵してはならぬ聖域”として廃城後も424年にわたり保護して来た…という事なんでしょうね。

正圓寺裏手の空堀 草にまみれてるけど、立派な掘割です
市の史跡指定もなく、あまり知られていない深沢城ですが、ご子孫が守っている事で広い遺構はほぼ完全に残り、とてもお奨めな城址です。
ただ、公園化されてない分、訪れる方も見学マナーだけはレベルアップして臨まないと、見せて貰えなくなる可能性はありますね。
この日も朝から住民総出で、除草作業に汗を流していました。
ただ、公園化されてない分、訪れる方も見学マナーだけはレベルアップして臨まないと、見せて貰えなくなる可能性はありますね。
この日も朝から住民総出で、除草作業に汗を流していました。