関東の城探訪  群馬県  安中城  登城日2014.10.11
 
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   城郭構造      丘城
 天守構造      なし
 築城主       安中忠政
 築城年     嘉吉元年(1441年)
 主な城主    安中氏、井伊氏、水野氏、堀田氏、板倉氏、内藤氏
 廃城年     1872年
 遺構      武家屋敷(郡奉行屋敷、武家長屋)
 指定文化財     なし
 所在地     群馬県安中市安中1丁目
 
 
 陽も傾いて来たので、本日最後の安中城に向かいます。
安中城は松井田城で触れた様に、安中忠政が築城し、嫡子の忠成が入ったのが始まりです。
 
 忠政は武田信玄との戦いで敗死し、忠成もまた長篠の戦で安中勢全滅の憂き目に遭って、安中氏は混乱のうちに北条氏と共に滅亡してしまいます。
 
 戦国期の安中城がどんな城だったかは定かではありませんが、碓氷川と九十九川に挟まれた段丘を利用した、コンパクトな崖端城だっただろうと想像します。
 
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城址の北側 国道からはここで入ります
 
  廃城になった城址は放置され、しばらくは農耕地に使われますが、1614年、高崎城主:井伊直政が嫡子:直勝に3万石を分地し、安中城址に陣屋を建てて“安中藩”を立藩しました。
  井伊直勝は嫡子ながら病弱だったため、彦根藩34万石は二男の直孝が継いだそうです。
 
 井伊の安中藩は2代で転封になり、以降は水野氏1代、堀田氏1代、板倉氏2代と目まぐるしく替わり、次いで入った内藤氏の時にやっと陣屋大名から城主大名に格上げされ、城郭の構えが実現できました。
 
 最後の藩主は三河相良から入った板倉氏で、初代:板倉勝清は老中になったため、下総で1万石を加増されました。
 板倉氏の治政は6代で明治維新を迎えますが、歴代藩主は藩内の整備に尽力し、今に残る資料の多くはこの時の物の様です。
 
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城の縄張り図
 
  
 

安中城を歩く
 県道からR18に出て東進し、安中市街を目指します。
戦国の城でも江戸時代を通して生き残った城は、なんらかの形で保存され大切にされている事例が多いので、安中城はどうなのか…楽しみです。
 
 R18は安中市街に入ると九十九川右岸を走ります。
城址の下にさしかかると、市民文化センターに上がる交差点があるので、右折して入って行きます。
 この市民文化センターこそが、安中城本丸跡といわれる場所で、ここに駐車(無料)して辺りを散策して見ます。
 
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遠足…ですか?
 
  さっそく駐車場の脇に石碑がいくつかあります。
『遠足の碑』『日本のマラソン発祥の地』の碑ですね。
遠足といっても、弁当と水筒と200円分のおやつを持って行くアレではなくて、“とおあし”と読むらしく、安中藩が藩士の鍛錬のために年に一度、甲冑を着て碓氷峠の上までを往復させた行事の事です。 
これ、結構有名ですよね。
 
 隣接する安中小学校の周りをグルリ歩いて見ます。
基本は住宅街ですが、道も狭く、立派な門構えに板塀の家があったりで、武家屋敷の風情を醸しています。
『馬場跡』とか『会所跡』などの案内看板も所々にありますね。
 
 大通りに出るとお囃子の音が聴こえて、山車が出ています。 ちょうど『安中まつり』にぶつかった様で、閑静な城下町も少し賑わっています。
山車には『旧邸』と書かれていますが、城址の特に藩主の御殿跡の地域をそう呼んでるのかな?
 
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ラッキーな事に、安中まつり当日でした
  
 山車を見ながら通りを進むと、小学校の前。 ここに『安中城址の碑』があるそうなので、中に入って行くと、校門の脇にありました。
 さらに進んで行くと、洋館の邸宅があり、反対側には石造りの教会があります。
『安中教会』、大河ドラマの『八重の桜』に出てた建物だ。 
そういえば新島譲は安中藩士でしたね。
 
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安中教会
幼稚園も兼ねてて、中は見れません 
 
 小学校の周りを東から北へ回り込み、城の痕跡を探します。
建物はおろか土塁や石垣、堀などの遺構は一切無いのですが、普通の住宅の低い石垣など、新しい建材ではなく、城の資材を思わせるモノがあります。 総じて城下町の雰囲気が感じられ、折からすれ違う法被と豆絞りのイナセな人達が似合う、落着いた界隈ですね。
 
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 また大通りに出て西に向かうと、すぐに萱葺き屋根の武家屋敷風の建物がありました。
『安中藩郡奉行役宅』とあります。 
資料館にもなっている様なので、入ってみます。
 
 入場料\210を払って中を拝見しますが、まず目に付くのが安中城の絵図面で、台地を目いっぱい使って、城館があり、周りを重臣の屋敷が囲んでいます。
堀や石垣は見当たらず、塀でのみ仕切られた城だったんですね。 
そうだとすれば、廃城後の現状に至る経過も理解できますね。
 
 感心してると、管理人さんがやって来て、いろいろ説明してくれます。
 ・幕府からの命で碓井の関と渋川の関を管理していました
 ・領地の割に石高が低く、いつも貧乏な藩でした
 ・藩士は300人で、うち100人は江戸の藩邸詰めだった
 ・石高3万石のうち1万石は銚子に近い下総の領地で、年貢は江戸藩邸に
  送られた
 ・郡奉行は領地の刑事と司法を司る役人だが、知行は50石と低く、質素
  な生活だった
などなど、小藩ならではの苦労話を中心に、貴重な情報が得られました。
 
 去り際に、『すぐ近くに藩士が住んだ長屋が残ってるから是非見て行ってください』と奨められたので、そちらも覗いてみました。
 こちらも萱葺きの質素な佇まいですが、江戸の町人の長屋とは違い、2DKの広い間取りです。 
主に軍事や学問の指南役が住んだそうですから、臨時教員用の宿舎という事
ですね。
 
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郡奉行所役宅
奉行所も兼ねていて、同心が一人付いて、御役を二人で廻してたそうです。
ほんとに質素
  
 最後に、先ほど思い付いた、『新島譲の生家』を訪ねます。
こちらは少し離れるので、クルマで移動しますが、昨年のブームで駐車場など整備されているそうです。
 
 途中の路地で山車に出会って迂回したり、大変でしたが、なんとか到着。
先ほどのお奉行様の役宅より質素だから、下級藩士だったんでしょうね。
こちらも管理人さんが付き添って説明してくれます。
 大河ドラマ見てたから、ほとんど知ってる事なんですが、遺品なども多くて見応えがあります。
 
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ちょっくら、見せてくなんしょ
  
 
 さて、今日も一日5城でハードでした。
最後の安中城は遺構が殆ど無く、戦う城としての妄想には至りませんでしたが、城の出自や藩の経営状態などの知識を得て、廃城後の現状を見て、それらがいちいち納得出来るものでしたから、松代城の時の様に満足感で安中を後にできます。
安中城は安中の人達の生活と空気の中に生きていました。