関東の城探訪  群馬県 後閑城   登城日2014.10.11
 
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   城郭構造     丘城
 天守構造     なし
 築城主      依田氏
 築城年      嘉吉元年(1441年)
 主な城主     依田氏、後閑氏、武田氏、北条氏
 廃城年      1590年
 遺構       郭、土塁、空堀、復元物見櫓
 指定文化財    町史跡
 所在地      群馬県安中市中後閑
 
 
 続いて、松井田から東に下って、後閑城です。
この城、ほとんど無名の城で、記録も記憶も殆ど無い城なんですが、何が良いのかって…遺構の残り具合とその保全整備が凄いのです。
 
  三島の山中城は100名城で誰でも知っていると思いますが、その群馬版とも言える形で整備がなされ、中世城郭の姿をキレイに見せてくれます。
同じ安中市に在りながら、松井田城とはこうも扱いが違うかねぇ…。
 
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雰囲気のある物見櫓です 登っても何も見えんけど…
  
 
 後閑城が築城されたのは1441年と古く、信濃佐久郡の豪族:依田氏が築いたのだそうです。
その頃は鎌倉公方:足利持氏と関東管領:上杉憲実が争った、永享の乱~結城合戦の頃で、なぜこの時期に、上杉の膝元で、持氏に近い信州の豪族が築城に及んだのか…謎です。
 
 後閑城はその後、武田信玄の支配下で新田氏に与えられ、これを機に新田氏は後閑氏と名を改めたと言われます。
  後閑氏は北条氏の傘下では大道寺政繁に従い、1590年に廃城となりますが、王道の梯郭式の立派な縄張りを持つ城の割には、歴史の表舞台に現れる事もなく、とても謎の多い城です。
 
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城址の立体模型
カエルの屍骸ではありません
  
 
 
 
 
後閑城を歩く
 後閑城へ行くには後閑小学校を目印にします、小学校の裏山が城址なので、位置はとても判りやすい城ですね。
 後閑の地は松井田と安中の中間に位置しますが、碓氷川沿いではなく、支流で北を流れる九十九川の流域が領地になります。
 小学校の両側、いずれも2~300m過ぎた所に登り口があり、ダイレクトに郭内に乗り付けるなら西から、地道に麓からじっくり見るなら東から登ります。
 私は、性格上東を選びましたw
どちらにも広い駐車場があり、30台は停められるでしょうか…。 
さすがに此処は3台ほど先客が居ました。
 
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駐車場も広くて綺麗
 
  クルマを停めて、カメラだけの軽装でアプローチします。
登城路は広く、掃除も行き届いてて、都内の公園を歩いてるの感覚です。
 急な登りになり、丸太仕立ての階段が延々と続くのが見え、一瞬砥石城の悪夢が頭をよぎりますが、見えてた範囲のみで、登り切るともう本丸土塁の下でした。
 
 ここまで、未だ誰とも遭わず。代わりに、冬眠前のアオダイショウが迎えてくれました。
 しかし、冬眠前にしては痩せてたから、春に眼が覚めるかどうかと心配になったりしますw
 
 本丸下から南の尾根に“南郭”が延びていて、5段ほどの郭塁が重なっています。
その一番上には物見櫓が復元されていて、此処のは実際に登れます。
 しかし、実際に登って見ると雑木に阻まれて視界は効きません。 ここまで整備するなら、こういう所に是非こだわって欲しいものですね。
 
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本丸には庚申塔がビッシリ
 
  次いで本丸に登って見ます。
南北に細長く、二段に分かれていて、敷地は500坪ほどか。
戦国期の城で、土塁を巻いてない郭というのも何か不自然ですね。
もしも遺構通りに復元してるとしたら、攻城戦の中心が鉄砲に移る時に対応出来てないから、城として重用されなかったのかな… などと考えます。
 
 本丸の南半分にはグルリ庚申塔が立っていて、異様な雰囲気を醸しています。
 百庚申といって、塔を百基建てて供養する宗教的な遺跡ですが、全部で128基あるそうです。 もちろん戦国以降のもので、地元の人達がここを神聖な場所として保護して来た証しですね。
 
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見下ろす西の曲輪群
 
  本丸から見下ろすと、本丸を中心に四方に郭が連なって下がって行ってる様が一望出来ます。
春日山城の樹木をすべて伐り払ったら、こんな風に見えるかな(もっと規模はデカイけど)などと夢想しながら、ここで本日の第一城人発見!
西の駐車場でベビーカーを押したファミリーが帰途につく所でした。
4城目にしてやっと人に遭いましたw
 
 主要な郭にはそれぞれ大きな東屋が造ってあります。 
兵舎風なので違和感はありませんが、中を覗いてビックリ。まるで居酒屋のBOX席がズラッと並んでいます。
 ここでピンと来るのは、春の一時期に訪れるたくさんの人達のため、もし天候が崩れても引き続きここで楽しんで貰える様にと、造ってあるんでしょうねw。
良いアイデアだと思います。
 
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城内に何棟もある“居酒屋”
 
  しかしこの城、何人かの人が指摘してる様に、若干のやり過ぎ感は否めませんね~。
客観的に見て、これだけの城を支えるには、それだけの広い領地があり領民が居て、石高と兵力が無いと維持できません。 
 
 
 安中領(江戸時代でも僅か2万石)の真ん中に割り込んだ形で、そんな大きな経済力は無さそうだし、武田氏の様な大大名が資金を出して、兵站基地に使ったとしたなら海ノ口や深志の様に、行軍の都度に記録が残る筈ですもんね。
そういう城はふつう平城ですし。
 
 ただ、北条氏の最終場面で使う城を絞り切らないまま、野戦主張の氏邦あたりが大々的に拡張してしまった… というパターンならあり得ますが。
とにかく、謎謎謎…の綺麗な城でした。