関東の城探訪 群馬県 松井田城 登城日2014.10.11

城郭構造 梯郭式山城
天守構造 なし
築城主 安中忠政
築城年 永禄初年
主な城主 安中氏、大道寺氏
廃城年 1590年
遺構 郭、土塁、空堀
指定文化財 安中市史跡
所在地 群馬県安中市松井田町高梨子
天守構造 なし
築城主 安中忠政
築城年 永禄初年
主な城主 安中氏、大道寺氏
廃城年 1590年
遺構 郭、土塁、空堀
指定文化財 安中市史跡
所在地 群馬県安中市松井田町高梨子
続いては松井田城を目指します。
松井田城は歴史好きには名の通った城で、北条征伐の時に激戦のあった、関東でも指折りの大規模な山城であり、岩櫃城の時に似た期待感を持っての本日のハイライトの登城です。
松井田城は歴史好きには名の通った城で、北条征伐の時に激戦のあった、関東でも指折りの大規模な山城であり、岩櫃城の時に似た期待感を持っての本日のハイライトの登城です。
松井田は中山道が碓氷峠へ向かう登り口にあり、古くから碓井の関が設けられた要衝の地でした。
この地に最初に城を築いたのは、この地を支配していた安中忠政で、1560年頃と見られています。
この地に最初に城を築いたのは、この地を支配していた安中忠政で、1560年頃と見られています。
安中氏は1500年頃に越後から移って来た豪族で、山内上杉氏から碓井郡を所領に貰い、定住した様です。
上杉に縁の深い越後ですから、関東の戦乱に際して、有能な家臣を増員する一環の移住だったかも知れませんね。
上杉に縁の深い越後ですから、関東の戦乱に際して、有能な家臣を増員する一環の移住だったかも知れませんね。
松井田城の築城は、ちょうど武田信玄の上野侵攻のタイミングですから、当初は対武田の備えだったと思われます。
忠政は同時に安中にも城を築き、こちらは息子:忠政を入れて守りを固めます。
1562年、信玄はさっそく松井田城を攻めますが、この時は攻略できず引き上げています。
1564年、今度は松井田、安中双方を攻め、安中の忠政は開城降伏しますが、忠政はなおも松井田城で防戦し、粘りに粘って開城しました。
信玄は忠政に切腹を命じ、安中の領地は嫡子:忠成が武田配下としてそのまま治める事にしました。
以後、安中氏は上野における武田方の尖兵として、長野勢らの上杉勢力と対峙して行きます。
以後、安中氏は上野における武田方の尖兵として、長野勢らの上杉勢力と対峙して行きます。
武田勝頼の代になって、西上作戦が始まると、安中忠成は兵を率いて真田信綱の与力として出陣します。
この戦いで長篠で歴史的惨敗を喫した武田軍、忠成も真田信綱とともに討死にし、どんなに月日を経ても、安中に戻って来る敗残兵は誰ひとり居なかったそうです。

大道寺政繁の屋敷跡だったといわれる南麓の補陀寺
武田氏が滅び、滝川一益の統治を経て、北条氏の配下となった安中氏ですが、北条氏は松井田城には新たに宿老の大道寺政繁を入れて来ます。
大道寺政繁には信濃への侵攻・統治の役割がありましたが、徳川家康と和睦で信濃からの撤退が決まると、松井田の城将として国境の地の防御に努めます。
この時に松井田城は大きく拡張整備され、関東有数の堅固な要塞城になりました。
大道寺政繁には信濃への侵攻・統治の役割がありましたが、徳川家康と和睦で信濃からの撤退が決まると、松井田の城将として国境の地の防御に努めます。
この時に松井田城は大きく拡張整備され、関東有数の堅固な要塞城になりました。
1590年、豊臣秀吉の北条征伐軍3万5千が松井田城に殺到します。
攻将は前田利家、上杉景勝、真田昌幸の錚々たるメンバーです。
守る大道寺勢は3千と言われますが、攻防1ヶ月の末、遂に本丸にまで攻め込まれて降伏開城します。
攻将は前田利家、上杉景勝、真田昌幸の錚々たるメンバーです。
守る大道寺勢は3千と言われますが、攻防1ヶ月の末、遂に本丸にまで攻め込まれて降伏開城します。
降伏した政繁は、豊臣勢の先鋒を志願し、特に八王子城攻略には力を発揮して、存続の道を模索しますが、返ってこの豹変を秀吉に嫌われ、切腹させられたそうです。
大道寺配下であった安中氏もこれで滅亡してしまいました。
大道寺配下であった安中氏もこれで滅亡してしまいました。
松井田城はこの後使われる事もなく放置され、自然の中に埋もれて行っています。

松井田城遠景 向こうの烏帽子は妙義山
松井田城を歩く
富岡から上信越道に乗って、妙義山の威容を左に見ながら、妙義松井田ICで降ります。
道なりに進んで、R18交差点を右折してR18バイパスに入ります。
2kmほど走った左手に『だるま食堂』という廃業したレストランがあり、その隣りに左に降りる道がありますから、見逃さずにここで降ります。
道なりに進んで、R18交差点を右折してR18バイパスに入ります。
2kmほど走った左手に『だるま食堂』という廃業したレストランがあり、その隣りに左に降りる道がありますから、見逃さずにここで降ります。
小さいけど『松井田城址』の看板もあります。
降りるとすぐ、バイパスを潜って来た道とぶつかりますから、そこを左に曲がって、城址の山に登って行きます。
道はすぐに峠になり、下り坂になりますが、しばらく下って、右手にゴルフ場のコースがチラチラ見え出す頃、左に入る城址への道が現れます。
道はすぐに峠になり、下り坂になりますが、しばらく下って、右手にゴルフ場のコースがチラチラ見え出す頃、左に入る城址への道が現れます。
城の縄張り図の看板と低い位置の『松井田城址入口』の看板があります。
ここからは細い道になりますが、ほんの1~2分登って行けば、城址の駐車場があります。
10台は停められる広さですが、ここも貸切り。
松井田城ほどの城を貸切りで観れるとは…。
ここからは細い道になりますが、ほんの1~2分登って行けば、城址の駐車場があります。
10台は停められる広さですが、ここも貸切り。
松井田城ほどの城を貸切りで観れるとは…。

登城路はこんな感じ…
クルマを停め、念のため登山靴に履き替えて、ストックを持って登り始めます。 結果的にこれは大正解で、後にずいぶん助かりました。
登り始めは2人ほど並んで歩けるくらいの地道で、山城の登城路としては普通だったのですが、鬱蒼とした樹林に覆われた城址は、200mも歩くと草ぼうぼうの危険な道に変わって行きます。 登山靴正解!
幸い看板がしっかり設置してくれてるので迷う事はありませんが、こりゃケモノ道ですw
幸い看板がしっかり設置してくれてるので迷う事はありませんが、こりゃケモノ道ですw

連続堀切は凄い遺構なのですが、腕が未熟で、見えた景色を写真にできません
坂の角度もそう大きくはなく、疲れるほどではありませんが、何が困ったって、行く手には幾重にも蜘蛛の巣の罠が張り巡らされてて、『大道寺勢の生まれ替わりか?』と独り言を呟きながら、ストックで巣を払いながら進んで行きます。 ストック大正解!!
しかし、この城址、いつから人が入ってないんだろ?
しかし、この城址、いつから人が入ってないんだろ?
めげずに進んで主郭部が近付いた頃、この城の名物でもある『連続堀切』の看板が現れました。
迷わずそちらに進んで行きますが、ここにも城兵の巧妙なワナが…。
迷わずそちらに進んで行きますが、ここにも城兵の巧妙なワナが…。

行く手を遮る巧妙なワナ 無理にどかせば矢が飛んで来るかも…
元の道に戻って山頂の本丸、二ノ丸、馬出しを目指します。
城兵のワナを薙ぎ払う腕の力が尽きかけた頃、二ノ丸(といわれる場所)に着きました。
え?ウソやん! というのが正直な感想です。
山の斜面の角度からして、不自然に平坦になっているから、城址なのは判ります。 けど、植林された50年モノの杉林の中、下草は生え放題で、見通しが利かない上に日光も満足に得られません。
見張り台と思しき場所に行って見ても、見えるのは空だけです。
城兵のワナを薙ぎ払う腕の力が尽きかけた頃、二ノ丸(といわれる場所)に着きました。
え?ウソやん! というのが正直な感想です。
山の斜面の角度からして、不自然に平坦になっているから、城址なのは判ります。 けど、植林された50年モノの杉林の中、下草は生え放題で、見通しが利かない上に日光も満足に得られません。
見張り台と思しき場所に行って見ても、見えるのは空だけです。

山上の惨状!
次に堀切の凹みを挟んだ本丸に行きますが、こうなれば期待する方がおかしいと思っていました。
本丸もやはり裏切らず、小さな祠がある以外は二ノ丸と同じ荒れ果てた杉林の中でした。
山上から中山道を見下ろして、進軍して来る北国勢を睨む大道寺正繁になってお昼にしようと、おにぎりとお茶を持って来ましたが、景色はおろか、腰を下ろす場所すらありません。
結局持ち帰りです。
本丸もやはり裏切らず、小さな祠がある以外は二ノ丸と同じ荒れ果てた杉林の中でした。
山上から中山道を見下ろして、進軍して来る北国勢を睨む大道寺正繁になってお昼にしようと、おにぎりとお茶を持って来ましたが、景色はおろか、腰を下ろす場所すらありません。
結局持ち帰りです。

本丸跡には小さな祠がありました。建物といえるのは、これだけ。

大道寺氏のものだとすれば、首を落すほどの怨みを持たれていたのですね…
それでも、しばらくは樹林と藪の中をウロウロしましたが、いい加減疲れて来たので下山します。
(気分的に満足感に包まれた下城とは差が有り過ぎ…)
(気分的に満足感に包まれた下城とは差が有り過ぎ…)
途中で『水の手』の看板につられて行って見ますが、ここには城兵の最終ボスのワナが…。
結局、断念してそのまま下山しました。
結局、断念してそのまま下山しました。

最終ボスはあまりにも芸術的なので、壊すにしのびなく、引き返しました
戦国好きには知名度は高く、楽しみに訪れた松井田城ですが、そのポテンシャルの一端は感じられたものの、全貌を確認するには程遠い状態でした。
市の史跡となってる割には、あまりにも放ったらかしに過ぎますね。
このまま人の記憶からも『廃城』にするつもりなのかな?
市の史跡となってる割には、あまりにも放ったらかしに過ぎますね。
このまま人の記憶からも『廃城』にするつもりなのかな?