関東の城探訪  群馬県  麻場城  登城日2014.10.11
 
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   城郭構造     崖端城
   天守構造     なし
 築城主      白倉氏
 築城年      文明年間(1469年~1487年)頃
 廃城年      1590年
 遺構       郭、土塁、空堀、復元物見櫓
 指定文化財    町史跡
 所在地      群馬県甘楽郡甘楽町白倉
 
 
 次は隣の甘楽町に移って、麻場城を訪ねました。
この地域は鏑川に注ぐ支流の流れが南の河岸段丘を削って造った、舌状台地が連続する地域で、麻場城もそのひとつを利用して造っています。
  谷をはさんだ東隣には『仁井屋城址』があり、この二つは二郭一城の関係で、併せて『白倉城』と呼ばれていました。
 
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全体の縄張り
広い城域でゆとりのある用地利用なのに、城主館が郭外にあるのはなぜ?
 
  
 白倉氏は小幡氏の一族であり、戦国末期の去就も小幡氏に順じています。
つまり、山内上杉の家臣でしたが、北条に鞍替えし、上杉謙信の侵攻を受けた後は武田氏に属し、武田滅亡後はまた北条の傘下で領地を守り、1590年の北条征伐では小田原城に籠城しました。
  麻場城は前田、上杉勢の大軍に囲まれ、開城降伏し、その時に廃城になりました。
 
 その後の城址は神社なども置かれず放置され、一部は農耕地となっていた様ですが、1990年頃から本格調査が行われ、残存遺構を中心に本丸、二ノ丸の一部が復元整備され、『麻場城址公園』となって今に至っています。
 
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北端の比高差は30m なかなかの迫力です
 
 
 
 
 
麻場城を歩く
 戦国期の小規模な城址が、史実に忠実に復元されている事で知られる麻場城。かなり期待しての登城です。
 R254(西上州やまびこ街道)を西進していくと、豊かな田園風景が広がります。
 
 この鏑川沿いの谷間は、広すぎる事なく、若干の傾斜があって、水利の便も良いので、古くから上州でも有数の穀倉地帯だった様ですね。
  それだけに、その争奪の激しい戦いが繰り広げられた事を、城塞の多さが物語っています。
 
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土塁を登ると薬研堀が待ち構え、すぐにまた土塁 攻めにくそうです
 
  
 ナビの地図で、上信越道の甘楽PAの方向を目指して左に入ります。
間もなく前方に見るからにそれと判る、樹木の無い土塁が見えて来ます。
あの土塁の左手に専用の駐車場がある筈です。
 『判りやすい!』と喜んだのも束の間、ここからが大変で、ちょうど辺り一帯で下水道の工事が行われていて、通行止めが随所にあり、狭い道を方向だけを頼りに迂回迂回の連続で長良川の“鵜匠”になった気分でしたw
 
 それでもやっと駐車場に着き、登城開始です。
ここもやっぱり貸切りでした。
 駐車場は本丸の東側下にあり、土塁の斜面を階段で登って行きます。
これはあくまでも見学通路で、本来の物ではありません。
 遠くから見えた様に、なかなか高さのある立派な土塁で、登り切った場所は先端の出丸になりますが、下との比交差は30mくらいありそうです。
 
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土塁の斜面にある登城路 もちろん、見学用に造られたものです
 
 土塁は空堀を挟んで二重になり、外側の土塁上は武者走りになっていて、堅固さを醸していますが、横矢などの工夫は無く、方形のシンプルな構造ですね。
 空堀は深さ5m以上の薬研堀で、上端は10m以上の幅があります。
出丸から本丸へは木橋で渡りますが、高低差はありません。
 本丸は50m四方ほどの広さで、全面フラットな芝生広場でした。
この敷地なら、たくさんの建物が建ったでしょうね。
 
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子供の頃の秘密基地を思い出す物見櫓
  
 本丸の南側には空堀を挟んで二ノ丸になり、その一部が復元整備されています。
この間は土橋で渡りますが、本丸からは若干ながら登り傾斜になっています。
 
 舌状台地ですから、先端に向けて緩やかに下がるのは自然の摂理ですが、そこに工夫の跡が見えないのには少しガッカリです。
 更に不自然なのは、本丸はまったく土塁が巻いていないのに、二ノ丸の本丸に面した部分には、若干の武者溜りのスペースを残して、2mほどの土塁があります。
この上からは本丸が丸見えで、狙い撃ちされてしまいますね…。
 
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二ノ丸から下り坂で本丸に至ります
 
  十分な遺構調査と考証の基に復元された様ですが、ここは空堀を掘った土は全て本丸側に積み上げる方が自然であり、工事の際の手違いなのでは無いかなぁ?
 
 二ノ丸に復元予想図があります。 
二ノ丸の先は外郭になり、ずっと奥でまた空堀と大手門で仕切られていた様です。
郭内の台地上はほぼ平坦ですから、小規模な城ながら当時としてはかなり広い有効スペースが確保できてた事でしょう。
東からの脅威には、小幡勢、武田勢も入って駐屯し、機を見て出撃する…。そんな役割を企図して築城された城だったのではないかと思います。
 
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兵どもの夢の跡だった瞬間
  
 
 小一時間ほど城内をウロウロして次に向かいます。
その間、この城も誰ひとりとして訪問者がありませんでした。
復元整備の当初はそれなりに賑わったのでしょうが、城址の学術整備だけでなく、公園と名付けるならせめて東屋とベンチとか、何か人が集まりやすい、居心地の良い場所にしないと、こうなってしまいますね。
歴史資料館など誘致できれば、資料と現物の両方見れるのにね…。
 人が来なくなると整備が行き届かなくなり、余計に人を遠ざける… 悪循環です。