関東の城探訪 群馬県 一郷山城 登城日2014.10.11

城郭構造 山城
天守構造 なし (史実とは関係ないが3重3階の模擬天守あり)
築城主 上杉憲実
築城年 永享10年(1438年)
主な改修者
主な城主 上杉氏、安部中務尉(新堀城主:多比良友定の重臣)
廃城年 1563年
遺構 土塁、模擬天守
指定文化財 なし
所在地 群馬県高崎市吉井町多比良
天守構造 なし (史実とは関係ないが3重3階の模擬天守あり)
築城主 上杉憲実
築城年 永享10年(1438年)
主な改修者
主な城主 上杉氏、安部中務尉(新堀城主:多比良友定の重臣)
廃城年 1563年
遺構 土塁、模擬天守
指定文化財 なし
所在地 群馬県高崎市吉井町多比良
一郷山城に行って来ました。
関越道から上信越道に入るとすぐ、左手奥に見える“アレ”です。
一郷山城は先週訪ねた平井城の支城として、新堀城とセットで作られたという事ですが、西からの攻撃に対する守りの外城=新堀城、見張り所=一郷山城という構成でしょうか。しかし、憲実の頃に、西から攻めてくる敵が居たかなぁ?

麓からは、岐阜城を思わせる偉容です
この城の西には小幡氏が居り、小幡 憲重は天文17年(1548年)、西上野のリーダー的存在の長野氏との折り合いが悪くなり、北条方に転じ、後に武田氏に属します。
この頃から上杉憲政の指示で平井城の西の守りも整備されたのでは無いでしょうか。
この頃から上杉憲政の指示で平井城の西の守りも整備されたのでは無いでしょうか。

山上から見る南の上武山系の山並み
しかし西上野の諸氏は長野業正の元に団結して武田の進攻に対抗し、幾度となく信玄を撃退します。
その業正も永録4年(1561年)に病死して、その2年後の永録6年(1563年)に武田信玄が進攻した時に、一郷山城は集中的に攻められてしまいます。
その業正も永録4年(1561年)に病死して、その2年後の永録6年(1563年)に武田信玄が進攻した時に、一郷山城は集中的に攻められてしまいます。

天守の下に僅かに残る遺構
小さな郭が段状に重なり、大手側に土塁が認められます
山の尾根を利用した小規模城砦だったのでしょうね
信玄は城の北側の千保原に陣城を築き、麓から攻め立てます。
城将:安部中務尉は投石などあらゆる手段で抵抗しますが、衆寡敵せず最後は斬り込んで全滅し、落城しました。
この後もこの地域では数多の戦がありましたが、一郷山城が城として機能した事は無く廃城となった様です。
城将:安部中務尉は投石などあらゆる手段で抵抗しますが、衆寡敵せず最後は斬り込んで全滅し、落城しました。
この後もこの地域では数多の戦がありましたが、一郷山城が城として機能した事は無く廃城となった様です。

武田信玄が陣を敷いた千保原の陣城跡
ここで愛馬の「天久」を亡くした信玄は、遺骸を埋め、馬頭観世音菩薩を祀って供養したそうです。
以来、命日には縁日が催され、近世まで草競馬が盛んでした。
一郷山城を歩く
前から気になっていました。
牛伏山という険しい山の上に漆喰塗り風の白亜の天守…。
牛伏山という険しい山の上に漆喰塗り風の白亜の天守…。
江戸時代の藩の復元天守かと思うも、こんな所に該当する藩など無いし、 人寄せのために作られた城風の観光施設かな…と思っていました。

沿道の名もない祠 栗がお供えしてありました
『牛伏山展望台』がその施設の名前で、事実も大筋はそれで間違い無いのですが、違うのは、戦国末期に本当に城だった場所に吉井町(今は合併して桐生市吉井町)が活性化を目的に本気で建てた公共の施設で、営利が目的ではなく入場も無料なんです。

牛伏山の名の通り、牛が寝そべっています
町の歴史を大切に思う人たちが、町内の旧跡を活用して人の集まれる施設を…と考え、史実には目をつぶっても、思いっきり目立つ天守を建てたとしたら、その本気度は評価されて良いと私は思います。
戦国の城をそのまま復元しても、目立たないし、結局は我々城オタ以外は誰も有難がらないし、来ませんからねw
戦国の城をそのまま復元しても、目立たないし、結局は我々城オタ以外は誰も有難がらないし、来ませんからねw

見下ろす吉井の町並み 遥か向こうに榛名山
歴史を左右する役目を担った訳でもない古戦場や城跡が、多くの人達に知られ、訪れて貰えるなら、討ち死にした地下の将兵達も本望だと思います。

山はもう秋本番でした