関東の城探訪  群馬県 平井城  登城日2014.10.04
 
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 城郭構造       崖端城
 天守構造       なし
 築城主        上杉憲実
 築城年        1438年(永享10年)
 主な改修者      北条氏康
 主な城主       上杉氏、北条氏
 廃城年      1560年
 遺構       復元土塁、空堀
 指定文化財      なし
 所在地      群馬県藤岡市西平井
 
 
 上野の戦国史を語る上では欠かせない、関東管領:山内上杉氏の拠城が平井城です。
この上杉氏、ドラマや小説ではあまり良く描かれる事が無いので、まず城址の前に山内上杉氏と関東管領職としての事績について、客観的な意見を述べておきますね。
 
山内上杉氏とは
 上杉氏は元は藤原北家系のお公家さんでした。
鎌倉幕府の将軍が三代で絶え、後嵯峨帝の宗尊親王を迎える事になって、京からたくさんの公家が随伴して行きましたが、その中に藤原重房がいました。
重房は丹波国上杉荘に所領を貰った事から、以後は上杉氏を名乗ります。
 
 鎌倉では有力御家人の足利氏と昵懇になり、姻戚関係を深めて地盤を作ります。
 二代:上杉憲房は娘を足利貞氏に嫁がせ、生まれたのが足利尊氏と直義ですから、その深さが判るでしょう。
上杉氏は宗尊親王が謀反の疑いで送還された後も武士として鎌倉に残りました。
 
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関係分のみの作成です
  
 重房と三代の憲顕にかけては庶子に分家を立てさせ、扇ヶ谷、犬懸、宅間などの分家がこの時に分かれましたが、これらと区別する為に、宗家は鎌倉の山ノ内に屋敷があった事から“山内上杉家”と呼ばれます。
 
 三代憲顕の時、幕府打倒の機運が高まり、上杉氏も自然に倒幕勢力として足利尊氏と行動を共にします。
この辺の詳細は飛ばしますが、 尊氏に与力する事で、室町幕府では上野、越後の守護職など、たいへん厚遇されています。
 尊氏にすれば、生死を共にしてくれる祖父・叔父・従弟達ですから、当然といえば当然ですね。
 
 憲顕の頃、足利尊氏の嫡子:義詮が鎌倉府(幕府の関東支社)に赴任すると、執事として同行し、義詮の政務を補佐しました。
 1338年、尊氏の死で、義詮が二代将軍として帰京すると、代わりに弟の基氏が鎌倉公方として赴任して来ますが、近しい親戚、憲顕への信頼は変わらず、執事に加え関東管領職をも憲顕が兼務する事になり、上野から武蔵に掛けて一族は繁栄します。
   足利政権の柱石たらんとする覚悟が、上杉家の家訓だったのでしょうね。
 
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公園入り口と復元土塁
二羽雀の幟旗が誇らしげにはためいています
 
  五代憲方の頃になると鎌倉公方との仲に歪みが生じ、八代憲実に掛けては苦難の時を迎えます。
 足利基氏の子氏満は、関東公方でありながら幕府の執行機関でしかない身に不満を抱き、自治権の拡大を求めて幕府を揺さぶる様な行動に出てしまいます。
この背景には中央の支配に潜在的な抵抗感を持つ在地の豪族の下支えがありました。
 
 これに対し、上杉憲方、憲定、憲基の歴代執事は公方を諌めるとともに、幕府への釈明に心を砕き、幕府の中での鎌倉公方の地位を懸命にを守ろうとしますが、八代:上杉憲実の時についに破綻してしまいます。
 
 時の公方:足利持氏は何かと口うるさく邪魔する執事:憲実を殺害する計画を立てます。
これを察知した憲実は堪らず鎌倉を逃れ、自領の上野:平井城に籠ってしまいました。
 
 この事態にいち早く動いたのは幕府で、信濃の小笠原氏などに憲実救援を指示し、攻め込んだ幕府軍に持氏勢は敗れました。
 戦後、憲実は将軍:足利義教に対し持氏の助命と嫡子:義久の鎌倉公方継承を嘆願しますが、義教は持氏の謀反行為を決して許さず、逆に憲実に持氏親子の殺害を命令します。
 
 苦悩の末やむなくこれを実行した憲実は、主を討つに至ってしまった贖罪から関東管領を辞して世捨て人となり、一族からの関東管領継承も固辞して子供は全て出家させ、自らも伊豆の寺に隠遁してしまいます。
 
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復元範囲はまだ本丸の半分くらい
 
  
 関東の出先を失った幕府は困って、 8年後、将軍:足利義教の死去を待って鎌倉公方を復活させ、なんと持氏の遺児:成氏が就任してしまいます。
 また上杉家の行く末を懸念した家宰:長尾景仲は独断で、憲実の長子:憲忠を環俗させ、関東管領に就任させてしまいます。
 
 この事態を憂えた憲実は憲忠を勘当し、その所領を奪って持氏の未亡人の賄領として成氏に献上するのですが、上杉を父兄の仇とする成氏の気持ちは溶けず、ついに憲忠を殺害に及んでしまいます。
 これに対し幕府は成氏追討を決め、今川、斯波などの大軍を送って討ち破ります。
 
 この後は山内上杉家が関東唯一の幕府をバックに持つ勢力として、上野、武蔵、相模を支配します。
 一方の成氏は領地の古河に退いて、以後は古河公方を自称するのですが、結城、千葉、小山、真里谷、宇都宮などの支持基盤は依然として強く、関東の謂わば“保守”vs“革新”の両勢力は、以後は革命勢力の北条氏が出てくるまで、利根川を挟んでの一進一退の長い争いをして行きます。

 

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復元予想図
民家が多いので、難かしいでしょうね…
  
 しかしながら、上杉家にはその後も古河公方の血筋を“主”であるとする潜在意識が強く、何とか幕府との仲を取り持ちたいとの意識が感じられ、矛先は鈍ります。
 応仁の乱以降は幕府の支援も得られず、独力で戦乱を生きて行きますが、そうした篤実さが足枷となり、大きな戦力を持ちながら、幕府の存続が有名無実になった後も真の戦国大名にはなり切れませんでした。
 
 
関東管領とは
 鎌倉公方を補佐する役職として室町幕府が設置し、幕府の意が通る様に、任命は将軍が行ないました。
初代は足利基氏の執事:上杉憲顕が務め、次いで斯波氏、畠山氏が務めますが、その後は幕府の信頼度から、上杉氏が世襲で務める事となり、幕府と鎌倉公方の板挟みで苦しむ事になります。
 
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二ノ丸は農地だから、まだ有望かも  むこうの丘には詰めの城“金山城”がありました
 
  
 さて、やっと本題の平井城です。
前述の様に、 上杉憲実 が主人:足利持氏と険悪になった頃、家臣の長尾忠房に命じて築城しました。
 利根川の支流、鮎川が刻んだ断崖を背にした崖端城で、崖端の本丸を中心に土塁を巡らせた郭を配していましたが、外郭の範囲はハッキリ判らない様です。
背後の山(金山?)には詰め城の金山城があったそうです。
 
 山内上杉氏はこの城を拠点に、以後は古河公方の勢力との戦いを続けますが、 上杉氏の家宰を巡る内紛(長尾景春の乱)があり、それを事実上収拾したのが分家である扇谷上杉氏の家宰:太田道灌であった事から、扇谷上杉氏が台頭してきて、関東は三つ巴の戦乱の時期を迎えます。
 
 これを終息させたのは相模から勢力を延ばして来た北条氏で、戦国大名らしい容赦の無い厳しい戦いをする北条氏の前には、両上杉も古河公方も抗す術がなく、本拠の平井城も1552年には北条氏康により攻略され、関東管領:上杉憲政は家来筋の越後長尾氏を頼る事になります。
 
 北条氏の持ち城となった平井城ですが、1560年に越後から侵攻した長尾政虎(上杉謙信)によって落とされ、謙信が上野の拠点を厩橋に定めた事から、廃城になりました。
 
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土塁壇上から眺める背後の上武山系
  
 
 
 
平井城を歩く
 関越道から上信越道に乗り換え、すぐの藤岡ICで降り、県道を南進します。
関東平野と上武山系の境目にあるこの城は、すぐ北を中山道、下仁田街道が走る要衝の地でもありました。
 
 西平井の交差点を入るとすぐに城域らしく、二羽雀の幟旗が現れます。
紋の下には『関東管領 平井城』の文字。 
地元の力の入れ様が伝わって来ますw
さらに進むと、『平井城本丸跡5百メートル』の看板もありました。
 すぐ先に幟旗がいっぱい立った案内所らしき小さな建物がありますが、あいにくクルマがイッパイで停められないので、先に城址に向かいます。
 
 さらに進むと、左手に幟旗が林立した土塁が見えてきました。
土塁の手前が入口で、入って行くと広い芝生広場です。
一部が駐車場になっていて、一台先客が居ます。 
「おや、珍しい」と思ったら、カップルが広場でラジコンヘリ飛ばして遊んでいましたw
 
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園内の墓地に並ぶ古い墓石
 
  広場の片隅にパネル展示のコーナーがあり、縄張り図もあります。
どうやらこの広場、本丸の範囲を公園化したものの様で、本丸の広さは百m四方くらいの規模ですね。
入口の土塁も一部を復元したものらしいです。
 
 しかし、外郭の縄張りはまだ未調査なのか、不明な様で、全容が判る図はありません。
城址公園の完成予想図がありますが、周囲はだいぶ民家で埋め尽くされており、郭内にも養豚農家が有りますし、市街地からここまで整備する苦労を思うと、もう復元は難しいかも知れませんね。
 
 つぎに土塁に登って見ます。基壇は石垣で造られてて、城と言っても御殿に近い風情で、さすが、関東管領の拠点ですね。
壇上も5mほどの幅の武者走りが確保されてて、実戦上も有効な土塁です。
 川沿いを覗いて見ます。
崖端城だから当然かも知れませんが、落差20mはある断崖が続いています。
 その傍に墓地がありました。
新しい墓石もあり、地元の方の墓地なんでしょうから碑文を読むのは遠慮しましたが、室町期からと思われる古い墓石が数多く見られます。
地内には上杉家を祀る祠と、顕彰慰霊碑もあり、大切に守られて来た様です。
 上杉家の家臣で、土着帰農した人達の物なのか、 越後や隣国に逃れた人達がまたここに集まって来て住んだのか…。
 
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 家臣の末裔の人達が世話してるのかな?
 
  ともかく、足利将軍家を共に創り、関東管領という職務を忠実に実行し、私利私欲をすべて排して、頑なに足利家を陰で支え続けた山内上杉氏。
後の世の保科正之~松平容保に通じる家風ですが、それを誇りにしている地元の方々の気概を『関東管領 平井城』の幟旗に強く感じました。
 
 陽が傾いたので、来る時に見た案内所に向かいます。
しかし、まだ駐車スペースは空いていないので、やむなく家路に付きます。
 帰宅してから調べたら、あの案内所は地元の歴史研究家の方が私設で開いてる資料館だったんですね。
平井城の整備もその方の功績が大きい様で、話を聞いて見たかったですね。
しまった~。
 
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 最後に山内上杉氏のその後について少し…。
越後の謙信を頼った憲政は丁重に庇護され、城下に豪壮な屋敷を用意してもらい暮らしていました。
 謙信の死後、御舘の乱が起こります。
景勝に春日山城を追われた景虎は憲政の館に逃げ込み、助けを求めます。
そう、御舘の乱の御舘とは、憲政館の事なんです。
 憲政は謙信の恩に報いる為にも両者の調停をと考え、春日山城に向かいます。
しかし時は戦国、殺気立っていた景勝側の門兵は…
 憲政:『我は前の関東管領:上杉憲政である! おのおの方、命を粗末に
     なさるな! 生きられよ!』
 門兵:『???…かまわん!放てえぇぇぇい!』 パンパンパンッ
 景勝の指示があったのかどうか、 あったとしたら憲政が北条に近い景虎の味方をすると思ったのかどうか…。
いずれにしても景勝の兵により憲政は殺害されてしまいました。
その結果、景勝の上杉勢は上野での人望を失い、謙信が13度も執拗に攻め、守ろうとした上野の地に、二度と毘龍の旗を立てる事は出来ませんでした。
 憲政の子孫はその後歴史の表舞台に出る事はなく、出家などしてひっそり暮らしたそうです。