関東の城探訪  群馬県  沼田城  登城日2014.10.04
 
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  城郭構造     丘城
  天守構造     なし
  築城主      沼田顕泰
  築城年      1532年
  主な城主     沼田氏、上杉氏、北条氏、真田氏 、本多氏、黒田氏、
                           土岐氏
  廃城年      1682年
  遺構       土塁、空、石垣
  指定文化財    沼田市史跡
  所在地      群馬県沼田市
 
 
 沼田の地は北上野の真ん中で、利根川沿いに拓けた土地であり、古くから交通の要衝でした。
 ここに沼田城を構えたのは、鎌倉期からの土地の豪族“沼田氏”で、戦国初期までは山内上杉家の傘下でしたが、上杉憲政の亡命以降は北条、上杉、武田が覇権を争って争奪戦を繰り返す、過酷な環境下に置かれます。
 
 沼田氏家中でも内紛が起き、親北条派だった沼田弥七郎は家中をまとめ、与力する形で北条の配下に入りますが、北条側は北条綱成の二男:氏秀を送り込み、沼田康元を名乗って、直接支配を目論見ます。
 
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沼田のシンボル テーブルマウンテンの三峰山と越後へと続く山並み
  
 その後、上杉謙信が越境して攻め込み、沼田を掌握しますが、謙信もまた直臣の本庄秀綱を城代に据え、直接支配体制を敷きます。 
こうした中で沼田氏の支配権は完全に失われ、没落してしまいます。
 
 1578年、上杉謙信の死で起こった御館の乱に乗じて沼田城はまた後北条氏が押さえ、今度は城代に猪俣邦憲、金子泰清を置きます。
しかし、上杉・武田間で甲越同盟が結ばれると、その約定で上野は武田の切り取り次第となり、沼田には武田の武将:真田昌幸が攻め寄せます。
昌幸は金子泰清を調略して無血開城させ沼田城を手に入れます。
 北条側はこれに対し、何度も奪回を試みますが、その都度真田に跳ね返されます。
 
 1582年、織田信長により武田が滅亡すると、上野には重臣の滝川一益が入ってきます。 真田昌幸は沼田城を献上する事で織田配下としての生き残りを果たしますが、その信長が本能寺で斃れるとまた北条の進攻を受ける事になり、昌幸は沼田を支配しながらも北条傘下での和睦を試みます。
 しかし、武田旧領で北条と徳川の対立が始まると、徳川と共闘する途を選び、また北条との攻防戦が再開されます。
 
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僅かに残る真田の城の痕跡
 
  やがて徳川と北条は和睦し、その条件に沼田を北条に渡すというのがありました。
昌幸は徳川と同盟はしてるものの、自から得た領地を勝手に渡される謂れは無いので、今度は上杉と組んで北条・徳川と闘います。
 
 戦いは膠着し、この争いは天下人“豊臣秀吉”の調停を受ける事となり、秀吉は沼田領の利根川以東を北条に渡し、代替地は信濃の徳川領から真田に渡す事で一旦決着します。
 沼田城には猪俣邦憲が入りますが、調停に不満な邦憲は利根川対岸の名胡桃城を攻め落としてしまいます。
調停を踏みにじられた秀吉は激怒し、北条討伐の号令を発し、北条は滅亡してしまいます。

 

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天守台跡
 
3万石の身代で建てた五層天守は領民を苦しめ、自らをも改易に追いやった
 
水戸黄門主従は沼田には来なかったのかな?
 
 
 
  沼田領は真田の手に戻り、昌幸は嫡子:信之を入れて支配させます。
この体制は江戸時代になっても変わりませんでしたが、前の『小川城』で書いた様に『失政』により沼田真田家は改易になり、沼田城も一旦破却されてしまいます。
 
 その後は天領になり、次いで本多氏2代、黒田氏5代、土岐氏12代と繋いで明治を迎えますが、みな1~2万石の小藩だった事から、広大な城域は本格的に整備される事なく、いずれも城跡に簡素な陣屋住まいだった様です。

 

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上質な公園だった瞬間
 
  維新の廃城後、荒れるに任せていた城址は元藩士の手で買い戻され、そのまま沼田市に寄付する事で開発を免れ、市民公園として復活し、今に至っています。
 
 
 
 
 
沼田城を歩く
 春には花見客で近付けなかった沼田城にやっと来ました。
利根川に注ぐ片品川と薄根川が造った台地の先端に築かれた“崖端城”ですが、その崖がまた高くて、50mはあるかなぁ… 平地続きの東から攻めるしかないなこりゃw
 
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近年に復元された鐘楼  中には入れません
  
 残って公園になってるのは、花壇が整備されてる本丸と、野球場・テニスコートになってる二ノ丸、そして古城跡の捨て郭という範囲です。
 本丸の遺構は復元も含めて鐘楼以外は殆ど無いのですが、西の櫓台と石垣はよく残されています。
テニスコート脇に僅かに残る水堀も、南の石積みは当時のものですね。
 
 二ノ丸は野球場が二面の広大な広場に変わってはいますが、周囲を土塁の跡の様な土盛りで囲まれています。
江戸期の陣屋はここに在ったかも知れません。
 最後に捨て郭ですが、天守台の裏から続くエリアはその後に大きな改変がなかった様で、この城で一番当時の雰囲気を感じられる場所です。
 
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本丸から見下ろす城下町 ちょうど汽笛とともにSLがやって来ました
個人的にとても懐かしい風景でした