関東の城探訪  群馬県  小川城  登城日2014.10.04
 
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  城郭構造     崖端城 
    天守構造     なし 
    築城主      沼田景久
    築城年      1492年(明応元年)
  主な城主     小川氏、北条氏、真田氏
  廃城年      1657年
  遺構       土塁、空堀
  指定文化財    みなかみ町史跡
  所在地      群馬県利根郡みなかみ町月夜野字古城
 
 
 群馬の城めぐり、今日は利根川沿いに北から下って行きます。
まずは小川城
 
 小川城は沼田城主:沼田景久が西の備えの支城として築きました。
沼田氏は古くから沼田地方に拠る豪族で、鎌倉幕府の御家人を経て、戦国初期は山内上杉家に与力しながら、この地を治めていました。
 景久は小川城に二男景秋を置き、小川氏と称して、代々この城を守らせます。知行は3,500石ほどですから、兵力は100人に満たない規模だった様ですね。
 
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縄張り図:無いので蔵書から転載
中央の本丸の地形がほぼ残っている図では一面だが、川沿いは一段低い腰曲輪です
(障子堀はやりすぎ)
  
 上杉憲政が越後に去り、沼田の地にも北条の影が忍び寄って来ると、家中
が分裂し、当主:弥七郎は北条に付き、隠居していた先代:顕泰が上杉支援で争います。
 その後、上杉謙信が南下して北条vs上杉の鍔競り合いになると、両勢力は互いに城代を送り込んで統率に当たり、沼田氏の権威は没落して行きます。
 
 そんな中での小川城の推移ですが、概ね上杉方の城として機能していましたが、四代:小川彦四郎が若くして戦没したため、跡継ぎがなく、客将として上方から来て滞在していた赤松祐正が謙信の裁可を得て五代となり、“小川可遊斎”を名乗ります。
 可遊斎は寡兵ながら戦術を駆使して北条勢を再三退け、名声を得ますが、北条氏邦に大兵力で攻められ、抗戦むなしく落城してしまいます。
可遊斎は越後に逃れて上杉の家臣となり、米沢で代々続いたそうです。
 
 その後は一族の北能登守が城を守り、この地を平定した真田昌幸に従属して戦国時代の終焉を迎えます。
同時に小川城は廃城となりますが、沼田藩五代藩主:真田信利が、兄:熊ノ助から継承するまでの18年間、5,000石の分知を受けて、二ノ丸跡に陣屋を構えていたそうです。
 
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二ノ丸跡は蕎麦畑でした
 
  
 余談ですがこの真田信利、信之の長男:信吉の次男で、兄:熊ノ助が早世した事で沼田藩主になりましたが、いわば嫡流である事から、宗家:松代藩の継承に絡んで“自分こそ継ぐべきだ”と意義を唱え、妻の実家:土佐山内家や老中:酒井忠清を巻き込んだお家騒動を起こしてしまいます。
 
 ここは92歳の真田信之が老骨に鞭打ってなんとか収拾しますが、信之の死後にもその動きは収まらず、宗家に対抗した石高の過剰申告や、沼田城や江戸藩邸の豪奢すぎる修築などで終始領民を苦しめ、改易となってしまいました。
 
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本丸跡は牡丹の園地に
 
  
 
 
小川城を歩く
 真田の軍記には必ず出て来る“小川可遊斎”の本拠地を初めて訪ねました。
上越新幹線の『上毛高原駅』の東、わずか200mほどの殆ど駅前に城跡はあります。
 
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R291の道沿いにこの表示
真田の関わる城跡はこうしてとても判り易いのが特徴ですね。
狭いけど、旗の前に2台ほどは駐車できます。
 
  国道脇はもう本丸の空堀が口を開けてて、5mほどの深さの結構な堀ですね。 除草も行き届いていて、一端堀底に下りてから郭に登って行きます。
段差のない平坦な連郭構造ですが、川に面した部分は20m以上の断崖になっていて、堅城ぶりが垣間見えたりします。
 なんとなく、名胡桃城の縮小版って感じですね。
 
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本丸土塁は崩落もなく400年の歳月を経てもよく守られています
 
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僅かにある石垣は投石用を兼ねたサイズで、実戦的な合理性を感じます