関東の城探訪  群馬県 山上城  登城日2014.09.20
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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   城郭構造     連郭式平山城
 天守構造     不明
 築城主      山上氏
 築城年      南北朝の頃
 主な城主     山上氏、大胡氏
 廃城年      1590

 遺構       土塁、空堀、土橋
 指定文化財    群馬県史跡
 所在地      群馬県桐生市新里町山上

 
 
 
 本日の最後は“山上(やまかみ)城”、この地に長く栄えた山上氏の居城です。
  山上氏は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の足利五郎高綱がこの地に居を構え山上氏を名乗ったのが最初で、平安末期の事ですから、年季の入ったバリバリの坂東武者ですね。
 
 鎌倉~室町期は源頼朝、足利尊氏に従って、常に勝ち組でしたが、戦国初期に関東管領:上杉氏と古河公方が戦った“享徳の乱”では上杉氏に付き、古河公方方の佐野氏に攻められ、落城の憂き目に遭います。
 のちに金山城の由良氏(横瀬氏)の支援のもと奪還しますが、以後は膳城の膳氏同様、由良氏の支配下に組み込まれる事になります。
 
 天文10年(1541年)、由良氏と厩橋長野氏の仲が険悪になると長野氏につく決断をして由良氏とは袂を分かちますが、この直後から北条氏の侵攻が始まり、山上城は落城し、山上氏は佐野氏を頼って下野に逃れ、没落して行きます。
 
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左の主郭につながる広大な帯曲輪  ず~っと向こうまで一枚の曲輪です
 
  山上城はのちに上杉謙信が奪還し、地の豪族:大胡氏に預けます。
大胡氏は上杉、北条そして甲斐の武田と、三大勢力の争奪戦の中、近隣の豪族と同様に旗幟をその都度変えて、なんとか生き延びます。
最後は北条氏の配下でしたが、小田原征伐で豊臣秀吉の直臣:片桐且元らに攻められ落城、廃城となりました。

 

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二ノ丸への虎口 構造は至ってシンプル
  
 
 
 
山上城を歩く
 前橋市の膳城から桐生市に入って山上城を目指します。
クルマに乗り込み、ナビに住所を打ち込みますが、出て来た表示を見てビックリ!
膳城から細い谷ひとつ隔てた北の丘を指してるではありませんか???
その距離約500m。 ウソでしょ?…と地図を拡大して詳しく見てみますが、確かに『山上城址公園』と書いてあります。
 
 事前の簡単な下調べでは、両城の深い関連を示す様な記述は一切出て来ず、互いに独自性を持つ豪族なんだな…という理解だったのですが、そんな関係の城が弓矢の届きそうな距離(そりゃ無いかw)で並立してるなど、聞いたことがありません。
ともかく半信半疑ながら行って見ます。
 
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二ノ丸広場  広いを越えて広大です
  
 ナビの到着予想通り、3分で到着しました。
確かにここが山上城址で、入口に20台ほどの綺麗な駐車場と案内所の様な建物があり、けっこうクルマが停まって賑わっています。
 え?そんな城なの?…と一瞬驚きましたが、ここは『山上城址公園駐車場』で、『山上城駐車場』はもっと奥だよと→看板が出ていましたw
 矢印に従い、200mほど奥に進むと、砂利敷きの広い駐車場がありました。
誰も停めていないから、長年の経験から『ここに違いない』と確信し、駐車します。
 
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本丸は手入れがイマイチ
  
 駐車場が有るのは城の東側で、土塁を一段登ると広くて長~い帯曲輪になり、その上段に空堀で仕切られた主郭が北から北郭、本丸、二ノ丸、三ノ丸と連続して並びます。
 
 それぞれの郭はこのクラスの城にしては相当に広く、記録には残っていないものの、上杉氏あるいは武田氏が相当な兵力を一時的に駐屯させた場面が有ったかも知れませんね。
 
 縄張りの印象としては直線的で至ってシンプルな構造で、攻められた都度落城してるのもうなずけますw。 北条の手が入った痕跡は感じられませんでした。
 
 城址の整備状況は膳城とよく似てて、樹林の中で、下草も伸び放題ですw
北の郭から二ノ丸にかけての広いエリアには放棄されたアスレチック遊具の様なものがたくさん朽ちかけています。
昭和の時代の遺物なのか、いろいろ活性利用を試みたが、上手く行かなかった痕跡ですね。
 
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主郭の西側下に続く空堀道  堀も直線基調です
  
 
 じゃあ、公園駐車場のたくさんのクルマは?…というと、二ノ丸の林を南に抜けると三ノ丸跡が芝生広場になっていて、良く整備されたフェアウェイみたいに気持ちの良い芝生が広がり、たくさんの遊具があって、何組かの子供連れファミリーが遊んでいます。
なるほど、こうゆう形で落ち着いたんだなw
 
 しかし、この三ノ丸と二ノ丸の間には“結界”でも有るかの様に、樹林の中は一般の人を寄せ付けず(城オタ以外は入る気にならないだろな…)、ここも終始貸切りでした。
途中に頭上でバサバサッっと大きな羽音がしたから『天狗が出たか!』っと身構えたら大きなハシブトガラスでしたwww
 
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三ノ丸跡の芝生広場
こう見ると城の広さが良く判る  兵力2~300の豪族の城じゃないですね
  
 芝生広場を東に降りると案内所の『郷土館』があります。
担当者(40代男性)があまりに暇なのか、外に出て色々声を掛けていたので、少し話して見ます。
 『ここは城というより、豪族の居館という感じで使われてた様なんです
    よ』
 そうですね~、同時代の菅谷館にも似た趣がありますね。
 『西側の防御は強いんだけど、東は何も防御の遺構がありません』
 上杉、武田、豊臣…最後の頃には、敵は常に西に居たから、そうなるで
    しょうね。
 『山上氏は河越夜戦にも参加したんですよ』
 両上杉と古河公方の兵が8万も集結したらしいので、たぶん行ってたで
    しょうね。
 『三ノ丸の南で丸馬出しが発掘されまして…』
 なんと、駐屯したのは勝頼でしたか。
…と、こんな話をしながら、最後に肝心の膳城との近すぎる関係を尋ねと、
 『あちらは支城です。山上城に集まって、膳城を詰めの城にして戦った様
    ですよ』
  支城は無いにしても、確かに距離からして、両氏が同盟関係にあればそんな使い方もするでしょうね。
 結局、関係を明快に説明できる資料が無い…という事かな。
 
どなたか御存知でしたらご教示ください。